別冊

9月24日の小中津川風景2010/09/28 01:19

■9月24日の小中津川風景

9月24日の小中津川風景







キミエ姉の家の庭の電柱。
なんでも、ミツバチが電柱の中に巣を作り始めたらしいというので、巣箱を取り付けたらしい。
先月は、庭の朝顔にはミツバチが沢山飛んでいた。
そのミツバチの一党が巣作りを始めたのか。
少しだけ近所の話題になっている。


昔からの地形なのだろうが、最近、山の傾斜が二段になっていることに初めて気づいた。

正面から見ても、でん、でん、と見えたのだ。


中央の色違いの山が、本名山。

>>そうした山の信仰はきまって、たとえば早池峰山や岩木山のような霊山を眺望することの出来る地域にかぎって、濃密な分布をしめす。
遠野の周辺でも、早池峰山が見えない地域には、とりたてて早池峰信仰もお山駆けの習俗もみられないらしい。
津軽の涯(は)ての竜飛(たっぴ)岬の稲荷の社で、お山参詣の古い写真を見たときのことを思い出す。
若い頃にお山参詣をしたという村の老人は、集落からは見えない岩木山が、舟で漕ぎだした海上からは見えるのだと教えてくれた。山はひたすらに仰ぎみられる時間の堆積のなかに、しだいに、ある宗教的な崇敬の結晶へと高められてゆく。
そこにはたぶん、仏教よりも深い信仰や習俗の時間が埋もれている。
【東北学】赤坂憲雄。P.58

本名(ほんな)の人は本名山を眺望することが無い。
昭和村の「本名(ほんな)」姓の人たちは、地名としての本名から下中津川や小中津川に移ってきてはじめて本名山を眺望できたのではないか、と、
「東北学/忘れられた東北」赤坂憲雄・講談社学術文庫を抜書きしてみて、そんなことをぼんやりと思ったのである。

[抜書き] 「東北学/忘れられた東北」
http://www.kkjin.co.jp/boso010_100606.htm



「柴(しば)」で作った、朝顔のトンネル。
昔々おじいさんが山へ柴刈りに行きましたが、山には「柴の木」という種類の木は生えていないのです。
枝付きのままの雑木(ぞうき=いろいろな木々)が主幹ごと伐られると、「柴」になります。おそらく。
若い木なので加工変形が容易です。
また、伐られた結果に柴と呼ばれる木は、鋸(のこぎり)などではなく鉈(なた)や大鎌などで切断できる太さや柔らかさ(しなやかさ)を持つものです。
おそらく。進さんの家の庭の畑には、柴だけで作ったハウス(植物の蔦を絡ませるための「手」)がありました。
「手」という表現は、ブログ『記憶の森をあるく』に書かれていた事の受け売りです。
インスパイアと思って欲しいのですが、

昔は集落の無かった佐倉と大芦のあいだの千石沢(せんごくざわ)に移住してきた方が企画して始められた炉端寄席。らしい。


進さんの家の軒下。

「玉屋敷」(←畑の名前)の畑のトマトときゅうりを植えていたハウスの解体。
屋根となる部分は、昔は「柴の手」だったのだろう。おそらく。
映っていないが、凸型の両端には、おまじないのように柴が一本ずつありました。




某家の倉の中。苗代ので苗取りをするための作業用の台(橋)ではないかと思う。


奥の細木巻き(ほそきまき)の橙色はカボチャである。
東京に戻ってから知ったことであるが、妻は、自分のカメラでこの細木巻きのカボチャを主題として写真を撮っていた。
「すごいでしょう!」とこれ見よがしにわたしに見せたのである。
あ、あの場所だな、とすぐにピピンと来た。
実はわたしが、その場所で写した写真がこれである。
わたしは、細木巻きの手前の畑の片付けられたハウスの跡を写していたのである。
なぜか、解体済みのパイプのある殺風景な景色とは思えなかったからである。
おそらくこのまま雪が降って来年の春までそのままにしておかれる風景なのであろう。
がしかし、ここには儀式があると感じたのである。
なぜか、一見放置された風景に見えるかも知れないが、パイプの上に一本の木を乗せてあるのである。
この一本の木が、季節の儀式を済ませた証左なのである。と思ったのである。
このことに思い当たったのは、宮本常一氏の事を書いた佐野氏の本を読んだからである。
その本には、日本各地の海岸には流れ着いた木に石を乗せてある風習があるらしいということが書かれていた。
その流木は単に流れ着いて放置されたものではなく、石を乗せることによって、誰かが手をかけているのだぞと、
所有権、もしくはその木は他の人と既存の関係を持つことを主張しているのである、といった説明であったように思う。
その本が手元に無いので、おそらく、と書いておくしかないが。
妻が細木巻きの空中にまで這い登ってきたカボチャの実を見て「すごいでしょう!」とコミュニケートしてきたのを、わたしはうなづきもせずにその近くの畑の中の一本の木(農作業の終了儀式としてパイプの上に木を置いた)の事を、とうとうと(知ったかぶりで)ぶって(講釈して)しまったのである。
少し酒気帯びでもあったが、ついつい知ったかぶりを主張してしてしまったのである。
後で、少し反省したが、このことについて釈明はしていない。
こんなことで釈明したら、わたしの私生活の立ち位置もなくなってしまうではないか。
妻よ、いつもの「内弁慶!」と思って聞き流してくれ。


夏に来たときには、白いアジサイを見かけた。

【参照】10/07/16小中津川学
http://yebijin.asablo.jp/blog/2010/07/21/5230139

こんどは、白いコスモスを見かけたのである。↑で書いた文章を使いまわしをすると、こうなった。
今年は何故か白いコスモスをよく見かけた。昭和村はカスミ草の大産地。カスミ草は元々白い。
染め色カスミ草として染色したカスミ草は大反響である。染め色カスミ草は購入者にも大事にされる。
白いコスモスはカスミ草を擬態しているのかもしれない。←嘘ですよ。


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