
紵績(北越雪譜) ― 2018/02/13 22:03
北越雪譜初編 巻之中
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人百樹 刪定
○紵績(をうみ)
余一年(ひとゝせ)江戸に旅宿(りよしゆく)せし頃、或人(あるひと)いうやう、縮(ちゞみ)に用ふる紵(を)を績(うむ)にはその処の婦人誘ひあはせて一家にあつまり、その家にて用ふる紵を績(うみ)たて此人々たがひにその家をめぐりて績(うむ)と聞(きゝ)しがいかにといひき。いかなる人ぞかゝる空言(そらごと)をばいひふらしけん。さりながら魚沼郡一郡も広き事ゆゑ、右やうにする処もあるやらん。たとひありとも、こは下品のちゞみに用ふる紵の事ならん。下品(げひん)の縮の事は姑舎(しばらくおい)て論ぜず、中品以上に用ふるを績(うむ)にはうむ所の座をさだめおき、体(たい)を正しくなし呼吸(こきふ)につれて手を働(はたらか)せて為作(わざ)をなす。定座(ぢやうざ)に居(を)らず仮に居(ゐ)て其為作(わざ)をなせば、おのづから心鎮(しづまら)ずして糸に太細(ふとほそ)いできて用にたちがたし。常並(つねなみ)の人の紵(を)を績(うむ)には唾液(つばしる)を用ふれども、ちゞみの紵績(をうみ)には茶碗やうの物に水をたくはひてこれをもちふ。事毎(ことごと)に盥(てあら)ひ座を清めてこれをなすなり。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.63)
・ ・ ・
○紵績(をうみ)
|| 余一年(ひとゝせ)江戸に旅宿(りよしゆく)せし頃、或人(あるひと)いうやう、縮(ちゞみ)に用ふる紵(を)を績(うむ)にはその処の婦人誘ひあはせて一家にあつまり、その家にて用ふる紵を績(うみ)たて此人々たがひにその家をめぐりて績(うむ)と聞(きゝ)しがいかにといひき。
〈紵績 縮に使う紵〉
■ ある年、江戸に滞在していた時のこと、こんな事を尋ねた人がいた。
〈或人〉「縮に使う紵を績む時には、ご近所の女たちがある家に集まってその家で使う分の紵を績みあげて、また別の家に集まって順番にそれらの家の分を績んでしまうと聞いたことがありますが、本当ですか」。
||いかなる人ぞかゝる空言(そらごと)をばいひふらしけん。さりながら魚沼郡一郡も広き事ゆゑ、右やうにする処もあるやらん。たとひありとも、こは下品のちゞみに用ふる紵の事なん。
〈紵績 縮に使う紵と普通物に使う紵の違い〉
■誰がこんなほら話を言いふらしたのだろう。
魚沼郡は広いので、そのような事をする所もあるのかも知れないが、あったとしてもそれは安物の縮に使う紵のことです。
※もしや、奥會津連か(((^^:。
||下品(げひん)の縮の事は姑舎(しばらくおい)て論ぜず、中品以上に用ふるを績(うむ)にはうむ所の座をさだめおき、体(たい)を正しくなし呼吸(こきふ)につれて手を働(はたらか)せて為作(わざ)をなす。
■商品としないような普段使いの紵績みのことは、さておきましょう。
中等品以上の縮に用いる紵を績むには、作業場所が決められています。
姿勢を正して、呼吸に合わせて手を動かしてはじめて良い糸に績めるのです。
||定座(ぢやうざ)に居(を)らず仮に居(ゐ)て其為作(わざ)をなせば、おのづから心鎮(しづまら)ずして糸に太細(ふとほそ)いできて用にたちがたし。
■その作業場所ではなく仮の場所ですると、気持も落着かないので、糸の太さにばらつきが出てしまうのです。
||常並(つねなみ)の人の紵(を)を績(うむ)には唾液(つばしる)を用ふれども、ちゞみの紵績(をうみ)には茶碗やうの物に水をたくはひてこれをもちふ。事毎(ことごと)に盥(てあら)ひ座を清めてこれをなすなり。
■普段使いの布用の時には唾で湿らせて績みますが、縮用の糸を作るときには茶碗のような器に水を入れて、それで湿らして績みます。
専用の手洗い盥(たらい)の場所で手もきれいにして績むのです。
※(本書説明文より抜粋)
紵績:縮の原料糸をつくるには青苧をぬるま湯にひたしてしめりを与え、少量ずつ口にくわえて右手の爪でその繊維を細くさき、左手でこれを撚(よ)りつないで苧桶(おぼけ)に入れる。
これを【苧績、をうみ】という。
越後縮(北越雪譜) ― 2018/02/08 22:09
北越雪譜初編 巻之中
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人百樹 刪定
○越後縮(ちゞみ)
ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。
縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。
・ ・ ・
○越後縮(ちゞみ)
|| ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。
〈ちぢみの呼称について〉
■ 〔ちゞみ、ちぢみ〕の文字は、普通に使われる“縮”の字を使うことにします。
また〔しゞみ、しじみ〕と読んだ方が良い物も“ちゞみ、ちぢみ”としておく事にします。
※簡便辞書によると、以下の文字あたりが、〔ちぢみ〕と同類らしい。
【蜆:しじみ】しじむ(蹙・縮)と同源。殻の表面に縮んだ文様があるところから。
【顰・蹙・獅噛:しかみ】しわがよること。
|| 縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。
〈越後の国でも魚沼郡の産物なり〉
■縮は〔越後の名産〕として日本中に知られています。
そしてそれは越後国(現新潟県)中で作られていると思うかもしれませんが、実はそうではないのです。
〔越後縮〕と呼ばれるものは、越後国の魚沼郡に限られる産物なのです。
||他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。
■他国でも縮を作りますが、ほんの僅かで、品質においては魚沼郡産とは比べ物になりません。
||そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。
〈縮は新しい呼び方〉
■そもそも〔縮、ちぢみ〕という呼び方は近頃のことで、古来は〔布(ぬの)〕とだけ呼んでいたのです。
布とは本来の意味は、〔を〕を織った物の総称なのでした。
今も塩沢あたりでは婆様たちは「今日は〔ぬの〕さ市に持って行きなせ」と言うように古言としても残っているのです。
※【縮と唱ふるは近来の事】延宝九年(一六八一)小千谷村郷帳などに縮役のことが見え、この頃から「縮」の語が使われたものと思われる(本書説明文より)。
※〔を〕は、麻・苧(からむし)・葛(くず)などの植物の茎から取出した繊維(掲載氏の解釈含む)。
||東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。
〈文献調査〉
■『東鑑』には、建久三(1192)年に源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉へ戻る時の餞別の事を記した条(くだり)に“越布千端”(「越後」の「布」千反)とあるのです。
※つまり、建久の頃には「布」と呼称していたし、名産地としての「越後」の地名も見えるという証左。
||猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。
■もっと古い書物にもありますが、そこまでは調べなくても良いでしょう。
||後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。
■それより後代では室町幕府に仕えた伊勢家の文書などにも「越後布」という表記が沢山あるのです。
※この項も、本書に説明文あり。
||さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。
■これらの史料によっても、むかしから〔布〕と呼ばれていた縮は〔越後〕の名産であったことが推測できるのです。
||愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。
〈なぜ縮(ちぢみ)と呼ばれるか-私案(鈴木牧之)〉
■わたしはこういう経緯ではないかと想像するのです。
・むかしから“越後布”は布の上品であった。(平織り、生平の時代?)
・その後織りの技術の創意工夫により、糸に縒りを強くかけることによって皺のある(しじませた)布を作るようになった。これは、汗をしのぎやすい。
・それで〔しじみ布〕というようになったが、〔しじみ〕となり〔ちぢみ〕と変遷した。
・このようにして、年々織りの技術も向上して、布の地にも美的感覚が加味されて、〔ちぢみ〕という名前だけが残った。
||我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。
〈ブランドとして進化する背景〉
■わたしの幼少の頃を思い出してみると、
・模様を織り出したり、錦織り専用の機織(はたおり)の道具なども製作できてきました。
・どんなに複雑な模様でも織る事ができて、縞(しま)も絣(かすり)も上手になって、そこから益々新しい技巧が工夫されたのです。
||機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。
■これには、機織の女性も賢くなってきたからだと思います。
※幾何学計算と、二進法など算法知識のことも含めてのことなのでしょうね(掲載子の感想)。
白熊(北越雪譜)1/2 ― 2018/01/20 22:19
北越雪譜初編 巻之上
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○白熊(しろくま)1/2
熊の黒(くろき)は雪の白がごとく天然の常なれども、天公(てんこう)機(き)を転じて白熊(はくいう)を出せり。
天保三年辰の春、我が住(すむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内浦佐(うらさ)宿の在(ざい)大倉村の樵夫(きこり)八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊(こくま)を虜(いけど)り、世に珍(めづらし)とて飼(かひ)おきしに香具師(かうぐし) 江戸にいふ見世もの師の古風なるもの これを買もとめ、市場又は祭礼、すべて人の群(あつま)る所へいでゝ看物(みせもの)にせしが、ある所にて余(よ)も見つるに大さ狗(いぬ)のごとく状(かたち)は全く熊にして、白毛雪を欺きしかも光沢(つや)ありて天鵞織(びらうど)のごとく眼と爪は紅(くれなゐ)也。よく人に馴(なれ)てはなはだ愛(あいす)べきもの也。こゝかしこに持あるきしがその終(おはり)をしらず。白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国(みくに)の祥象(しやうせう)なれば、天機(てんき)白熊(はくいう)をいだしも 昇平万歳(しようへいばんぜい)の吉瑞(ずゐ)成へし。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.30)
○白熊(しろくま)1/2
|| 熊の黒(くろき)は雪の白がごとく天然の常なれども、天公(てんこう)機(き)を転じて白熊(はくいう)を出せり。
■ 熊が黒いのは雪が白いのと同じくらい当り前のことですが、天の気まぐれは白い熊を生れさせることもあるのです。
|| 天保三年辰の春、我が住(すむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内浦佐(うらさ)宿の在(ざい)大倉村の樵夫(きこり)八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊(こくま)を虜(いけど)り、世に珍(めづらし)とて飼(かひ)おきしに香具師(かうぐし) 江戸にいふ見世もの師の古風なるもの これを買もとめ、市場又は祭礼、すべて人の群(あつま)る所へいでゝ看物(みせもの)にせしが、ある所にて余(よ)も見つるに大さ狗(いぬ)のごとく状(かたち)は全く熊にして、白毛雪を欺きしかも光沢(つや)ありて天鵞織(びらうど)のごとく眼と爪は紅(くれなゐ)也。
■ 天保三(1832)年の春、わたし(牧之)が住んでいる魚沼郡のことです。
浦佐宿のはずれの大巻村に住む樵(きこり)が八海山で、どうやって捕まえたかは判らないが白い小熊を生捕ったことがありました。
珍しいので飼っていたら香具師(やし)が買い取った。
市の立つ日や祭礼日など人の集まる所で見世物にした。
ある場所で、現物を見たが犬ぐらいの大きさで形はまったく熊である。
白い毛は雪のように白くて光沢があってビロード(天鵞絨)のようです。
目と爪は紅色(ピンク?)でした。
||よく人に馴(なれ)てはなはだ愛(あいす)べきもの也。こゝかしこに持あるきしがその終(おはり)をしらず。
■人にはなれていてとても可愛いものでした。あちこちに移動して商売としていたがその顛末は聞かない。
||白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国(みくに)の祥象(しやうせう)なれば、天機(てんき)白熊(はくいう)をいだしも 昇平万歳(しようへいばんぜい)の吉瑞(ずゐ)成へし。
■白といえば往古の事蹟でも「白亀の改元」「白鳥の神瑞」「八幡の鳩」「源氏の白旗」などなと。
白は、日本のめでたいしるしなので、白熊も天の贈り物で、長く平和が続く吉祥の兆しであろう。
※そういえば、奥羽国大沼郡野尻村中津川の白熊も熊野神社の瑞祥のいわれ(由緒)だったような。
修羅(しゅら)の事 ― 2018/01/14 20:29
『北越雪譜』(初編 巻之上)に、【修羅】の文字が出てくる。
|| 越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
|| 江 戸 京山人 百樹 刪定
||・・・
|| ○雪道(みち)
||・・・
||春は雪凍(こほり)て鉄石(てつせき)のごとくなれば、雪車(そり) 又雪舟(そり)の字をも用ふ を以て重(おもき)を用ふ。里人(りじん)は雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行(ゆく)事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車を用ふ。春の雪中重(おもき)を負(おは)しむる事牛馬(うしうま)に勝る。雪車の制作(せいさく)別に記す。形大小種々あり。大なるを【修羅(しゆら)】といふ。雪国の便利第一の用具也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし。ゆゑに里人雪舟途(そりみち)と唱ふ。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.17~20)
|| 江 戸 京山人 百樹 刪定
||・・・
|| ○雪道(みち)
||・・・
||春は雪凍(こほり)て鉄石(てつせき)のごとくなれば、雪車(そり) 又雪舟(そり)の字をも用ふ を以て重(おもき)を用ふ。里人(りじん)は雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行(ゆく)事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車を用ふ。春の雪中重(おもき)を負(おは)しむる事牛馬(うしうま)に勝る。雪車の制作(せいさく)別に記す。形大小種々あり。大なるを【修羅(しゆら)】といふ。雪国の便利第一の用具也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし。ゆゑに里人雪舟途(そりみち)と唱ふ。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.17~20)
この、修羅の事である。簡便辞書にも載っている。
>>運搬具である。大石などを乗せて、地面にコロを設置して、その上を滑らせて運搬する装置。雪上や斜面では、自重でもすべる。
(簡便辞書より抜粋)
というような説明以外に、面白い記載を見つけた。
何故に〔しゅら〕と呼ぶのかというと、(阿)修羅は帝釈天に戦いを挑む。つまりたいしゃくを動かすのです。そうです、大石(たいしゃく)を動かすところから命名されたのだそうですよ。
奥会津では、春の雪山などで、木を山から里に下すのも修羅で運ぶという記載も見つけた。
会津にこだわる中村彰彦氏の小説の中にも出てきます。
土塁はいずれ石垣造りにされる計画で、その石は東山の慶山(けいざん)村から伐(き)り出されることになった。会津は岩代国(いわしろのくに)ともいわれるように、盆地周辺には岩盤のしっかりした高地が多い。
慶山村、若松城下、越後街道をむすぶ線には人夫たちがびっしりと立ちならび、コロや修羅車によって巨石が運ばれてくると声をそろえて引き縄を引いた。普請奉行とその手代たちは万一の事故にそなえ、柿色の手拭い鉢巻姿で騎乗してその近くを駈けまわる。
《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》
慶山村、若松城下、越後街道をむすぶ線には人夫たちがびっしりと立ちならび、コロや修羅車によって巨石が運ばれてくると声をそろえて引き縄を引いた。普請奉行とその手代たちは万一の事故にそなえ、柿色の手拭い鉢巻姿で騎乗してその近くを駈けまわる。
《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》
『東に名臣あり 家老列伝』中村彰彦・文春文庫より(P.92)
実は、この修羅は、『北越雪譜』の別の章で「大持(だいもち)引き」として、出てくるのです。
この抜書きをしている同じ本「校註 北越雪譜」野島出版の178頁に、「○橇(そり)」という章立てがある。
そこに載っている文章の内容と図は、奥会津昭和村大芦でしばらく前から行事として復活させた「デエモチ(大持)引き」を髣髴させるのです。
そして、奥会津昭和村大芦の五十嵐唯一さんがご自分が描かれた絵画(油絵)をすみれ荘に寄贈されていた、それが「大持引」の絵なのです。ことを知ったのもつい数ヶ月前の事でした。
ご存知の方にはとっくに既知のことかも知れないことだが、この事に気づいたときの掲載子のユリイカとして投稿しておきます(^^;
(さて、この抜書きは、その頁までたどり付けるのだろうか、、、こら!)
160812_奥会津散歩・小中津川から下中津川 ― 2016/08/30 01:52
2016年8月12日。
小中津川から下中津川まで、夕方の散歩。
無人販売所。
新一郎さんがご自宅の階段の上で夕涼みをしていらっしゃった。
今年は村では、熊の話はとんと聞かない。猪と鹿。
猪はからむし畑にももぐっているとか。
日に当たる茗荷(みょうが)。
ヤナギ?
小中津川にもある。
熊野神社。
新盆のある家で立てる高灯篭(たかとうろう)。
亡くなられた方がお盆に戻ってくるときに、慣れていないので目立つように。
風習としてもすたれてしまったかも知れないが、集落によってする所と昔からしない所があるらしい。
奥会津昭和村としてくくってしまうと、その中でどこででもしている訳ではない。
他所から見れば似通いながらも、もともとは7つ程の村があり、それぞれの文化風習があったのです。
墓参りの風習などは、特に違う。
そして、高灯篭などは、その柱としての木(杉の木)の入手(伐ってくるのです)が、し難くなったのです。
高齢化の所為もありますが、それよりも、杉林に植林する人などがもういない。
杉林から若い木を間伐していたのです。
その間伐する若い杉が山林には無いのです。
杉林はあっても殆ど太すぎる杉ばかりになってしまった。
こうした杉の若木は、稲を天日干しする稲架(ハゼとかハザとか)を作る細木としても使われていた。
今、こだわる農家は稲の天日干しもするが、その構築材料は殆ど鉄パイプなどになってしまっている。
しかし、鉄パイプで構築した高灯篭はまだ見かけたことが無い、わたしが見たことが無いだけかもしれない。
160812_奥会津・小中津川と中津 ― 2016/08/29 00:48
160723_奥会津にて・からむし織の里からの帰り道 ― 2016/08/20 15:07
160723_奥会津にて・からむし工芸博物館展示室 ― 2016/08/20 14:48
160723_奥会津にて・からむし織の里フェア風景3 ― 2016/08/20 14:44
160723_奥会津にて・からむし織の里フェア風景2 ― 2016/08/20 02:21

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