別冊

5月2日朝2010/05/08 00:08


5月2日朝
5月2日、霜。

5月2日、霜。

5月2日、霜。

5月2日、霜。くま石。

5月2日、この犬にはいつもほえられる。


小くま石。

小くま石。

畝(うね)、昔は鍬で。今は機械で整形する。休耕田でもこれをしておかないと下流の田んぼが迷惑する。
おそらく、、


5月2日、博士山散策2010/05/08 02:02



5月2日、博士山、大芦、小中津川散策
孝雄さんの廃材の薪作り作業場所。

さて、行きますか。

小野川の追分の地。集落の中間(結界)の地である。

博士峠、車を降りて目的の地へ。

博士峠、まだまだ積雪が残る。ほぼカタ雪状態。

伐採されずに生き延びたぶなの木の理由。

博昭氏の定点観測木。このあたりにセミの抜け殻が、、


正面奥の木の上方が熊棚。秋に熊がここまで登って、枝を寄せてブナの実を食べて、その枝を尻に敷いた跡。

【ダメ出し】
くまだな、の解説の誤り→正)夏にミズナラの梢を引き寄せ昼寝した跡、、、、です。

くまだな、の駄目出しありがとうございます。
5月4日の福島民報記事「磐梯朝日国立公園指定60年」というシリーズの
「ブナの森『神』の場所」にたまたま「熊棚」の写真が載っていて、その記
事に記憶が曳きづられてついつい書いてしまいました。


葉に覆われる季節に、それぞれの枝は、陽を受け止めるために周りの枝と空間と折り合いをつけながら延びていくのである。

伊達政宗軍が通ったという旧道、切り通しの道。近くには一里塚もある。

【ダメ出し】
また熊の足跡のある掘り割り(雪)は、戦前に伐採木を搬出したトロッコ道です、、、、旧道は最初の神社跡のところ。

重ね重ね申し訳ありません。訂正です。
確かに、「伐採木の搬出」のことと、「でいもち曳き」の話を車中で聞いていたのに!ごっちゃにしていました。

その道は熊も歩く。これは、2、3日前の足跡だというのである。
足跡の大きさと深さで、昼(ぬかる)なのか夜間なのか(カタ雪状態の時間帯)なのかが判る。
足に付いた土の跡でもどのあたりから来たかが判る。そしてどちらに向かったのかも、バケモノ沢の方に向かったのである。らしい。


足跡。

第一目的地。それは誰も気づかない場所にある。


岩の上に、ブナとミズナラの木が寄り添っているのである。
劣悪の地(岩)だからこそ共生して成長したのか。


目印の松。この森の中に松の木も珍しい。

この沢のどこかで、熊はヒトを観察している。

このあたりは熊の足跡が「じんだら」ある。


からみついた山ブドウ蔓は枝を引っ張り、枝は蔓を引っ張る。
ブドウの蔓は、それ自体が編み組細工状態である。


大きなブドウ蔓がU字型に垂れていた。孝雄さんはへっぴり腰でブランコに挑戦。
乗ろうとすると揺れるのである。高さほぼ1.5メートル。

何とかブランコの姿勢を保つ。2、3度揺らしてから飛び降りるつもりが、実際は飛び落ちた格好である。
下が雪だったので事なきを得た。


ブナ清水。去年の秋は水が枯れていた。


水芭蕉祭りとなる湿地。


5月2日、大芦散策(1/2)2010/05/08 21:52


会津藩士の墓

顕彰碑

馬頭観音

顕彰碑、昭和村初代村長、五十嵐伊之重氏。

大芦村初代村長でした10/07/22訂正。
これらの記録は、後日の大芦スタディツアーで、菅家博昭氏が「大芦ノ佐蔵」「佐藤音乃助」「五十嵐善作」そして「五十嵐伊之重」の活動した年代のチャート資料を作成して、配布されている。
同氏が準備したそれらのツアー用の資料は後日の7月18日にいただいた。
歴史上の点でしかなかったものが(その点すらも知らなかったのだが)、繋がって行く知的興奮と感激と快感。
少し大げさと思われるかもしれないが、さほど大げさでもない。本当である(笑)。



昭和の森キャンプ場(昔は公園と呼んだ)近く。顕彰碑、馬頭観音、会津藩士の墓など。
左の人物は、わたしではない。博昭氏である。どうも顔のつくりが似ているのである。
同氏のトショバア(年寄り婆さん、曽祖母)、トメさん(一八八三年生~一九七一年没)は、「カラムシの本場である大芦から十五、六のときに大岐に嫁いできた」のである。わたしはカラムシの本場であった大芦で出生した。わたしは自分のトショバアのことは知らないままで現在に至っている。

大芦、中見沢。

大芦、山崎。

大芦、山崎。ミズの木、ダンゴ挿しに使う木。

大芦、山崎。カヤボッチ。これはコガヤだという。主にからむし焼きに使うカヤで丈が低い。
別名カリヤスともいうと教わる。駄洒落を言おうとしたら、本当に「刈り易い」から来ているのだというのである。

大芦、墓地。腰巻という地名の墓地。戊辰戦死者、官軍の墓。
明治の初めは、会津藩(賊軍)よりも官軍(国)を奉るお達しがあったらしい。


改修中の『大芦家』、天井部分は見えなくなるが、元の建物の木組みはほぼそのまま使用している。

孝雄さんの先祖、戊辰戦争に巻き込まれて亡くなられた佐藤音之助の墓。
村内では「佐藤」の苗字は野尻に見かける。大芦では数少ない苗字である。
大芦は「五十嵐」の群生地である。斜面には福寿草が群生していた。
大芦集落の墓地は、平地では見かけない。ほとんどが山すその斜面である。

大芦出身の徳行者、五十嵐徳行氏が平成21年(昨年)に寄進された供養碑。同氏のご先祖、大舎人(おおとねり)の系譜、「大芦ノ佐蔵」事「五十嵐佐蔵氏」大舎人九代の墓のそばに建てられている。
わたしは、「ダイシャジン」と読んでしまい何のことかは判らなかったが、博昭氏は代々の大きな墓が並んでいるのを見つけて興味津々。
3人の五十嵐が来て大芦をつくったという話はちょうど一年前に聞いた話でもあった。
《参考》[恵比壽塵報]73号:春の「会津学」めぐり
http://www.kkjin.co.jp/yebi_jin/index073.htm

このお墓では、「従大舎人七代之長男」と読める。

大舎人の代々の墓が並んでいる。

博昭さんが検索して見つけた村内の館跡の一覧資料。福島県のサイトらしい。
[調査有無]の欄は、全部[調査無]である。


大芦集落の遺跡地図。

小中津川集落の遺跡地図。博昭氏は、気多神社の由来文書とゴーン沢館跡の関係を推理する。

孝雄氏宅にて。孝雄氏と博昭氏、明日(3日)の日光市でのイベントの打ち合わせと練習。

新曲らしい。カポをつければ私にもなじみ深いコード進行である。私は「F」をごまかして弾いていたので今でも押さえられないが(笑)。
パソコンのキーボードもしかり、私は[Ctrl]キーを親指で押さえる。
博昭氏はこの後、コードごとにマーカーで色分けしていた。「明日までに暗譜する」という。


5月2日、大芦散策(2/2)2010/05/08 23:55


5月2日、大芦散策(2/2)
大芦の天空山館跡らしい場所の墓と山(丘)頂の祠。

聖地→館化、館→聖地化、どちらが先か。館(やかた)は、元々の住民の聖地と一致するらしい。

大芦、畑小屋地区。村内で大芦地区は広すぎる。博昭氏は「栗の木山の神」という場所に注目している。

「御前が岳」2日はまだブナの木、ナラの木の葉のグラデーションもない。

畑小屋、墓地近くの雪解け水を運ぶ堀。田んぼ近くで水路をジグザグにしている意味を考える。

大芦、中見沢地区。掲載子は、半世紀前にはこの川で遊んでいたはず。

大芦、中見沢地区。長命寺跡近く。

大芦、中見沢地区。上の神社。


大芦、中見沢地区。上の神社。

この形の石の祠は、村内各所の神社の境内にある。個人の家の庭にもある。切妻上部の家紋?の意匠がいろいろである。

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