別冊

5月2日、大芦散策(1/2)2010/05/08 21:52


会津藩士の墓

顕彰碑

馬頭観音

顕彰碑、昭和村初代村長、五十嵐伊之重氏。

大芦村初代村長でした10/07/22訂正。
これらの記録は、後日の大芦スタディツアーで、菅家博昭氏が「大芦ノ佐蔵」「佐藤音乃助」「五十嵐善作」そして「五十嵐伊之重」の活動した年代のチャート資料を作成して、配布されている。
同氏が準備したそれらのツアー用の資料は後日の7月18日にいただいた。
歴史上の点でしかなかったものが(その点すらも知らなかったのだが)、繋がって行く知的興奮と感激と快感。
少し大げさと思われるかもしれないが、さほど大げさでもない。本当である(笑)。



昭和の森キャンプ場(昔は公園と呼んだ)近く。顕彰碑、馬頭観音、会津藩士の墓など。
左の人物は、わたしではない。博昭氏である。どうも顔のつくりが似ているのである。
同氏のトショバア(年寄り婆さん、曽祖母)、トメさん(一八八三年生~一九七一年没)は、「カラムシの本場である大芦から十五、六のときに大岐に嫁いできた」のである。わたしはカラムシの本場であった大芦で出生した。わたしは自分のトショバアのことは知らないままで現在に至っている。

大芦、中見沢。

大芦、山崎。

大芦、山崎。ミズの木、ダンゴ挿しに使う木。

大芦、山崎。カヤボッチ。これはコガヤだという。主にからむし焼きに使うカヤで丈が低い。
別名カリヤスともいうと教わる。駄洒落を言おうとしたら、本当に「刈り易い」から来ているのだというのである。

大芦、墓地。腰巻という地名の墓地。戊辰戦死者、官軍の墓。
明治の初めは、会津藩(賊軍)よりも官軍(国)を奉るお達しがあったらしい。


改修中の『大芦家』、天井部分は見えなくなるが、元の建物の木組みはほぼそのまま使用している。

孝雄さんの先祖、戊辰戦争に巻き込まれて亡くなられた佐藤音之助の墓。
村内では「佐藤」の苗字は野尻に見かける。大芦では数少ない苗字である。
大芦は「五十嵐」の群生地である。斜面には福寿草が群生していた。
大芦集落の墓地は、平地では見かけない。ほとんどが山すその斜面である。

大芦出身の徳行者、五十嵐徳行氏が平成21年(昨年)に寄進された供養碑。同氏のご先祖、大舎人(おおとねり)の系譜、「大芦ノ佐蔵」事「五十嵐佐蔵氏」大舎人九代の墓のそばに建てられている。
わたしは、「ダイシャジン」と読んでしまい何のことかは判らなかったが、博昭氏は代々の大きな墓が並んでいるのを見つけて興味津々。
3人の五十嵐が来て大芦をつくったという話はちょうど一年前に聞いた話でもあった。
《参考》[恵比壽塵報]73号:春の「会津学」めぐり
http://www.kkjin.co.jp/yebi_jin/index073.htm

このお墓では、「従大舎人七代之長男」と読める。

大舎人の代々の墓が並んでいる。

博昭さんが検索して見つけた村内の館跡の一覧資料。福島県のサイトらしい。
[調査有無]の欄は、全部[調査無]である。


大芦集落の遺跡地図。

小中津川集落の遺跡地図。博昭氏は、気多神社の由来文書とゴーン沢館跡の関係を推理する。

孝雄氏宅にて。孝雄氏と博昭氏、明日(3日)の日光市でのイベントの打ち合わせと練習。

新曲らしい。カポをつければ私にもなじみ深いコード進行である。私は「F」をごまかして弾いていたので今でも押さえられないが(笑)。
パソコンのキーボードもしかり、私は[Ctrl]キーを親指で押さえる。
博昭氏はこの後、コードごとにマーカーで色分けしていた。「明日までに暗譜する」という。


コメント

_ 植田憲司 ― 2010/06/21 23:46

私は侠客の墓碑などを探訪しています。十数年前に一度 大芦の佐蔵の墓参をしましたが、今でも佐蔵の墓はありますか?。大芦の佐蔵の供養碑は知らなかったです。写真を一枚送っていただければ幸甚です。よろしくお願いします。

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