別冊 恵比塵

150719_奥会津/大芦赤田地区から矢の原へ2015/08/16 22:06

2015年7月19日。
奥会津昭和村の「からむし織の里フェア」のイベントの一つ、からむし畑とカスミソウ畑見学ツアーに参加しました。


150719_奥会津/大芦赤田地区から矢の原へ
こちらは赤田地区の墓場。
今(2015年)から、142年ほど前、明治維新という名の国内戦争があった。
それより以前の戦争は、陣地(土地、領地)争いでしかなかったのが、そうではない戦争になってしまった。
西の方のクニの人が仕掛けたのです。西のほうの人は口八丁の嘘つきが多かったのです。
それで、幕府所在地(今でいう東京都)の江戸の被害を回避するために、東北地方に戊辰戦争といわれる戦争が起こったのです。

その時代は、この辺りは奥羽国会津は野尻郷または大芦村と言われていました。
長くなるのと説明しきれないので端折りますが、
ここ奥会津の大芦村も、その戦争に巻き込まれたのです。
村の人口ほどの兵隊が(官軍と会津藩)押し寄せてきたのです。
そして、会津若松城(鶴ヶ城)が落城(開城)して、会津藩は「降参」して終戦となったのですが、そんな情報が入ってこないここ奥会津大芦村では、その翌日も戦争が続いていました。
そんななかで、「非戦闘員」である住民も物理的被害だけではなく、死傷者のでる被害が発生したのです。
だから、集団的自衛権で、日本軍(自衛隊)の派兵(派遣)は非戦闘地に限るなんていうのは、絶対大嘘ですからね。
それも、ニシの国の大嘘つきが言ってます。

そんなことで大芦村の人は、やってきた兵隊の人たちが敵か味方かなどともよくわからかったのに、この戦争に巻き込まれて亡くなった人もいらっしゃいます。
そんな人のお墓や、官軍として派遣されてきて戦死した人を痛ましく思って葬った、つまり本当に地元の人がお上の命令でさせられての打破内、自発的に祀ったお墓もあるのです。

ほかにも、江戸時代にこの地に逃避してきた国定忠治をかくまった大芦出身の義侠人のお墓などもあるのです。

これからバスで行く、矢の原高原も、そんな時代の戦場跡と遺蹟も残るのです。

説明が寄り道してしまいました。
(見学ツアーの説明員の方の説明ではありません、失礼しました(笑))


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