別冊 恵比塵
気多神社そばの畑、「玉屋敷」という地名がついている。
元々は畑ではなかった、ここにタマという人が住んでいたので、玉屋敷という。
先代か先々代かが、その屋敷跡を譲り受けた(法に則って所有権が譲渡された)らしいのである。
気多神社参道、境内の上がる階段の下。
幻の「矢の原清水」、水が出ていた。
新しく、案内木も立てられていました。
いわゆるお役所看板(定型パネルと印刷文字で、××村教育委員会とか書いてある)ではなく、出処不明で手作り手書きというのがいいですね(^^;
境内脇にある一番大きな石碑、↑正面。
正面に刻字はない。
その側面↓。
どうも、前面の下半分は削られて(割られて)いるような気がするのです。
経年の風雪による自然剥離なのか、人工的意図による剥離なのかはわからない。
わからないが、隣の集落の「熊野神社」の石碑は「村社 熊野神社」とあったものが、太平洋戦争の終戦(敗戦)で、占領地日本となった状態で、GHQの施策により『村社』という陰刻文字がセメントで塞ぎ潰されたという事をK氏のブログで見てから、その現場をわたしも去年から尋ねて見て、写真に撮った。
この石碑の正面が何故削られているようにしか見えないのか、その経緯はわからないが、どうも、そんな歴史がこの境内にもあってもよさそうな、気がしてしまったのでした。
これはわたしの妄想、全くの「トンデモ説」かどうかもよくわからない。
それはさておき、側面の文字は、「大正六●●●月十五日 建立」と読める。(●字は自信なし、干支文字が混じっているかも)
なんとなく、この碑石と時期がつながるものがある事に気づいたのです。
この年に、奉納されたと思われる三方が5台ある事がわかった。
それは、2010年の夏から行事を復活したという渡御祭の祭りでわかったのです。
渡御祭の途中のお休み所で祭壇を設置するのですが、その時の貢物を載せる台(三方・三宝)を写真に撮っていました。
#1
奉納 鎮守神
納主 宮本
世話人 束原安貴
大正六年六月五日
御社屋根替正遷宮御用納
#2
奉納 鎮守神
納主 泉屋
栗城長三
大正六年六月吉日
世話人 束原安貴
#3
奉納 鎮守神
納主 澤本屋
本名喜代太
大正六年六月吉日
世話人 束原安貴
#4
奉納 鎮守神
納主 米屋
束原福松
大正六年六月吉日
世話人 束原安貴
#5
奉納 鎮守神
納主 高砂屋
束原善六
大正六年六月吉日
世話人 束原安貴
三方は一台だけ(#1)が、書き方が違う。
それには、「御社屋根替正遷宮御用納」と明記してあります。
また、#1は大正六年六月五日と明記、他の4台は、大正六年六月吉日としてある。
つまり、#1の三方は大正六年にあった屋根替正遷宮行事に実際に使用された三方であるのではないか。
なんといっても、納主が「宮本」です。
他の4台は、小中津川のそれなりの家の方々らしい。
それらの方々は、この行事の記念として、気多神社の什器備品としての三方を奉納されたのだと思う。
サダオさんが、軒下のマイマイガの駆除をしていたので、庭に立ち寄って話を聞いた。
これは、ノズル付きのスプレー式。
庭の盆栽のモミジはきれいにやられっちまった、とか、白っぽいのがメスで卵を産み付ける。
茶色いのがオスで、とにかくイキマがいい(素早く避ける、逃げる)。
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