別冊

140504_奥会津・気多神社2014/05/12 00:23


2014年5月4日のことです。

朝の散歩、気多神社の桜

普段、デジカメの解像度(記録画素数)を最小にしているのですが、ここは、少しだけ(一段階)解像度をあげてみました(^^;。

わたし(掲載子)のブログは、大抵の写真はクリックすれば、大きい画像になるように登録しております。

140504_奥会津・気多神社





140504_奥会津・小中津川から下中津川2014/05/12 04:11

2014年5月4日のことです。

朝の散歩、小中津川から下中津川まで


140504_奥会津・小中津川から下中津川




はげ山









小中津川から(佐倉からと言ってもいい)おそらく、古木といってもいい、コブシの木です。
その間の道路沿いの樹木としては、ランドマークとなっても良い木です。
が、花の咲くこの季節にしか、誰も気づかないかもしれない。


この木の曲がり具合は、何だろうと気づいたのです。







小中津川には「気多神社」があり、そのお堂がある。その地の地名(坪名?)は宮原(みやばら)という。
下中津川には「熊野神社」があり、そのお堂がある。その地の地名は、スミマセンわかりません。
が、下中津川のはずれには、気多淵(けたぶち)という地名がある。

そして、この地、下中津川の中央部あたりは、大字下中津川字住吉という地名です。
住吉神社はかつて存在していたことと、住吉神社は今でもここに存在しているのです。がしかし、「住吉神社」というお堂はないのです。
奉納者のお名前を見ると、“鈴木家”とあります。
鈴木と言えば、日本国中の熊野神社にゆかりのある姓ですね。
ここから歩いて5分ほどの地には「熊野神社」があり、そして実際にその熊野神社の近所には、鈴木姓の方々が住んでいらっしゃるのです。
ところがこの祠(ほこら)の住吉神社には、奉納者のお名前として、鈴木何某という個人名ではなく、“鈴木家”とあるのですよ。

明治元(1868)年の廃仏毀釈(太政官令神仏分離令、加持祈祷を含む職業人としての山伏の消滅を含む)、そして戦後のGHQの宗教施策などで、もしくはもっともっと昔の淫祠邪教の破却合祀(キリシタン弾圧含む)政策にまで遡るかもしれないそれぞれの時代に翻弄された奥会津の“鈴木家”の歴史があるのではないか、と思ったのでした。

なんといっても、ここ奥会津昭和村は、南山御蔵入りの地の真ん中(もしくは境の地)であります(^^;


この桜の木の曲がり具合は、何だろうと気づいたのです。


大沼郡昭和村立下中津川小学校跡地。
元々の痕跡が残っているのは、この松の木と、門柱です。
この松の木の曲がり具合は、何だろうと気づいたのです。
昭和村立下中津川中学校が出来た時に、植えられた(移植された)松の木でしょう。
その頃は、この松葉の位置(高さ)はおそらく、小学校の門を通る時に小学生がジャンプしても届く高さにあったのではないでしょうか。と。


門柱に埋め込まれている、「大沼郡昭和村立下中津川小学校」の文字板。
うろ覚えで書いていますが、この門柱の高さは1.2mもないと思います。
もしも、この門柱の高さが、もっと高かったら、廃校時にとっくに取り壊されていたかも知れない、と思った。

かつ!この文字板は、つまり大人の目線よりだいぶ低い位置にあるのです。
山の木を見て、「これは太さも手ごろだ」などと言うときには、営林署の人とかはどうするのかわかりませんが、
「『目通り(めどおり)』何尺何寸(なんじゃくなんすん)」という言い方をするそうです。
目通りとは、だいたい150センチくらいだそうです。
その頃の時代に普通の大人が、真っ直ぐ横(水平)を見た時の高さのことですね。
つまり、それよりもだいぶ低い位置に、埋め込んであるのです。
妄想すると、小学一年生の目通りに合わせたのではないか!と。

それはつまり、その昔、小学校が建てられたことをその集落の大人たちが喜んだことは勿論ですが、
そのことを、子供たち(入ってくる小学生)に向けて、この位置にはめ込んだのではないでしょうか。
と、思ったのでした。

そして、もう一度、「もしも、この門柱の高さが、もっと高かったら、とっくに取り壊されていたかも知れない」、と思った。
とすると、この門柱は、村の人たちの子供たちへの思いやりがあったから残ったのではないか。
しみじみと、そう思うのですが、トンデモ話の邪推、ですね(^^;


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