別冊

110814_近所の稲荷様2011/08/21 22:24


110814_近所の稲荷様


これらの旗は、その節となるまでは、さる場所大事に保管されている。



110814_墓参り・小中津川2011/08/21 22:33


110814_墓参り・小中津川


味噌樽に名前を残した於澤ばあ様は、ひょっとしてこの方か。
今年の5月に見つけた「個人的な大発見」のことを、まだ調べていない。









110814_大芦へ墓参り2011/08/21 22:40


110814_大芦へ墓参り
甚五氏の子供は、八人。昭和の初めから、昭和十年代生まれ。長男が後継ぎ、次男は妻の兄夫婦の養子となる。後継ぎの長男は戦死、結果として三男が後継ぎとなる。
2011年08月13日(土) posted at 23:10:57
(11日夜に母から聞いた話のメモより)


お市ばさま、喰丸から大芦の長吉氏に嫁いだ。長吉夫婦は子をなさなかったので、妹(つばき)夫妻の子供の一人を養子縁組みした。お市ばさまの夫は甚五じさまである。家は隣だった。
2011年08月13日(土) posted at 23:22:45
(11日夜に母から聞いた話のメモより)
甚市、甚二、甚五、タケオ、は兄弟。甚市が、セナ、長男である。つまり本家筋となる。明治の時代のことである。
2011年08月13日(土) posted at 22:59:10

つばきばさまの男兄弟は、長吉、熊次、由吉、マサオ。(敬称略)。これらの方々の名前に親の一文字を受け継いでいるかどうかは判らない。このことは後で調べられる筈だ。
2011年08月13日(土) posted at 01:01:55
(11日夜に母から聞いた話のメモより)

甚五氏の子供は、八人。昭和の初めから、昭和十年代生まれ。長男が後継ぎ、次男は妻の兄夫婦の養子となる。後継ぎの長男は戦死、結果として三男が後継ぎとなる。
2011年08月13日(土) posted at 23:10:57
(11日夜に母から聞いた話のメモより)





五十嵐平喜氏とその妻スエとの間には五人の子供がいる。スエばさまは、平喜氏の兄に嫁いで、娘を産んだ(なした)。その夫が亡くなり(戦死?)、夫の弟、平喜氏と再婚して家が継がれた。
2011年08月13日(土) posted at 23:59:49

平喜じさまの親は新潟から来た大工(番匠)で、婿になって大芦に住みついた人だった。

(11日夜に母から聞いた話のメモより)


平喜じさまとスエばさまの子供はシンサク(平喜氏の兄)との間の娘を含め六人である。そのうち四人は故人となられた。三人の男の初喜、源喜、平吉氏。男子の名には
2011年08月13日(土) posted at 00:13:12
(11日夜に母から聞いた話のメモより)


訂正:甚五じさまは、甚伍じさまが正しいことを墓碑で確認した。
固有名詞の漢字表記はまだまだ間違いがありそうだ。

110814_大芦から矢の原経由2011/08/21 23:43


110814_大芦から矢の原経由
大芦家のマスターの手作り感100%の看板。
が、図と地を逆転させることによる、木目の強調表現には、(少し)感心した(^^;。
←ほんと!だってば(((^^;



神楽が来ていた。去年の14日には中見沢で遭遇した。



110814_代官清水にて・フトドキ者めらが!2011/08/21 23:46



Tweet!

2011年08月14日(日) posted at 12:21:45
代官清水で、テーブルをひろげようとしている団体あり。コンロなので焚き火ではないと言い張ってます、
yebijin



「ここで火をたくのは禁止されていると思います」と、一応異議申し立てをしたところ、
その団体は噛み付いてきた。
通報してやろう、、とつぶやいたら、ヨメは「やめなさい」という。
腹が立つので、Tweetしておいた。
残念なことに、ここは携帯が圏外となってしまう。
下中津川に下りてから、Tweet出来た。
隣町の方が、Twitterに反応してくれたが、村の人からの反応はなかった。
来ていた車のナンバーは控えましたよ。



110814_正法寺にて2011/08/21 23:55


110814_正法寺にて


折橋(小中津川と下中津川の中間)から移築された、薬師様。



寺の庭に置かれてある墓石の数々。
村で一番の大きなお寺さん。
昭和44年?の豪雨でこのお寺も周りの墓も流された。
流された後に、集められ、檀家の不明となった墓石だと思う。

110814_小中津川2011/08/21 23:59


110814_小中津川


2、3年前に義姉が植えたという池の土手の藤の木。
藤棚を作って引っ張りあげるほど大きくもない。
が、地べたにへたり込んでいる。
義姉が、まずは枝を持ち上げようと、下に支えの柱を入れる。というので手伝った。
昨日、一メートルほどのこの角材(五寸角ほど)を、物置にある錆びた鋸(のこぎり)で半分の長さに挽いた。
元々固い柱用の角材か、大汗をかいて、小一時間も掛かった。
効率を別にすると、手間隙かけた、とはこういうことをいうのだな。
恐らく藤の木が枯れてしまっても、この柱は残っているだろう。
「挽之甚、平成廿三年葉月吉日」と墨書しておけば良かった。
子孫がこれを見つけることがあれば、「この先祖は働き者でマメな方だったらしい」と勘違いしてくれるかもしれないのだ。
んなわけないか(笑)。







「まさか●●●のせい?」とは言わなかったが結構見事に皮が剥がれている。
「まさか熊とかハクビシンが?」とか言う。それも、まさか!である。恐らく、暑さのせいだと思う。
そのあと、そーっとビリビリと剥いていったとしたら、瘡蓋(かさぶた)剥がしの感触を知っているヒトが剥いだのかもしれない。
まさかね。




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