雪の用意(北越雪譜) ― 2018/01/07 01:13
北越雪譜初編 巻之上
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○雪の用意(ようい)
前(まへ)にいへるがごとく、雪降(ふら)んとするを量(はか)り、雪に損ぜられぬ為に屋上(やね)に修造(しゆざう)を加(くは)へ、梁(うつばり)・柱・廂(ひさし) 家の前の屋翼(ひさし)を里言に〔らうか〕といふ、すなはち廊架(らうか)なり 其外すべて居室に係る所力弱(ちからよはき)はこれを補(おぎな)ふ。雪に潰(つぶさ)れざる為也。庭樹(にはき)は大小に随(したが)ひ枝の曲(ま)ぐべきはまげて縛束(しばりつけ)、椙丸太(すぎまるた)又は竹を添へ、杖(つゑ)となして枝を強(つよ)からしむ。雪折(を)れをいとへば也。冬草の類(るゐ)は菰莚(こもむしろ)を以、覆ひ包む。井戸は小屋を懸(かけ)、厠(かはや)は雪中其物を荷(になは)しむべき備(そな)へをなす。雪中には一点の野菜もなければ、家内の人数(にんず)にしたがひて雪中の食料(しよくれう)を貯(たくは)ふ。あたゝかなるやうに土中にうづめ、又はわらにつゝみ、桶に入れてこほらざらしむ。其外雪の用意に種々(しゅ/”\)の造作をなす事筆に尽しがたし。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.8~12)
・・・
○雪の用意(ようい)
|| 前(まへ)にいへるがごとく、雪降(ふら)んとするを量(はか)り、雪に損ぜられぬ為に屋上(やね)に修造(しゆざう)を加(くは)へ、梁(うつばり)・柱・廂(ひさし) 家の前の屋翼(ひさし)を里言に〔らうか〕といふ、すなはち廊架(らうか)なり 其外すべて居室に係る所力弱(ちからよはき)はこれを補(おぎな)ふ。雪に潰(つぶさ)れざる為也。
■雪が降りそうな様子を見て、雪害を最小化するための色々の工夫をします。
家屋は修繕をします。梁や柱や庇などです。
家の前の庇のことを、越後ではろうか(廊架)といいます。雁木のことですね。
その他全ての家屋に関わる場所で、弱い個所は補強をします。
雪に潰されないようにする為です。
||庭樹(にはき)は大小に随(したが)ひ枝の曲(ま)ぐべきはまげて縛束(しばりつけ)、【椙丸太(すぎまるた)】又は竹を添へ、杖(つゑ)となして枝を強(つよ)からしむ。【雪折(を)れ】をいとへば也。
■庭木は、それぞれの大きさによって、枝を寄せても良いものは曲げて縄で縛り付けます。
細木(杉丸太)や竹を添えて、雪折れしないように支えの杖として枝が折れないようにします。
||冬草の類(るゐ)は菰莚(こもむしろ)を以、覆ひ包む。
■また、小木や枯れない植物などには、コモやムシロで包んで覆いをします。
||井戸は小屋を懸(かけ)、厠(かはや)は雪中其物を荷(になは)しむべき備(そな)へをなす。
■井戸には小屋掛けをします。便所は冬の間に便桶が一杯になってしまわないように、汲み取りなどをして準備しておきます。
||雪中には一点の野菜もなければ、家内の人数(にんず)にしたがひて雪中の食料(しよくれう)を貯(たくは)ふ。
■雪の冬の間は、畑で野菜の採取も出来ません。その家で冬季間に食いつなげるだけの食料を貯えておきます。
||あたゝかなるやうに土中にうづめ、又はわらにつゝみ、桶に入れてこほらざらしむ。
■暖気を保持するように地中に埋めたり、または藁で包んで桶等に保存して凍結しないようにします。
||其外雪の用意に種々(しゅ/”\)の造作をなす事筆に尽しがたし。
■そのほか、冬の間中の生活の為の準備作業は、とても書ききれるものではありません。
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○雪の用意(ようい)
前(まへ)にいへるがごとく、雪降(ふら)んとするを量(はか)り、雪に損ぜられぬ為に屋上(やね)に修造(しゆざう)を加(くは)へ、梁(うつばり)・柱・廂(ひさし) 家の前の屋翼(ひさし)を里言に〔らうか〕といふ、すなはち廊架(らうか)なり 其外すべて居室に係る所力弱(ちからよはき)はこれを補(おぎな)ふ。雪に潰(つぶさ)れざる為也。庭樹(にはき)は大小に随(したが)ひ枝の曲(ま)ぐべきはまげて縛束(しばりつけ)、椙丸太(すぎまるた)又は竹を添へ、杖(つゑ)となして枝を強(つよ)からしむ。雪折(を)れをいとへば也。冬草の類(るゐ)は菰莚(こもむしろ)を以、覆ひ包む。井戸は小屋を懸(かけ)、厠(かはや)は雪中其物を荷(になは)しむべき備(そな)へをなす。雪中には一点の野菜もなければ、家内の人数(にんず)にしたがひて雪中の食料(しよくれう)を貯(たくは)ふ。あたゝかなるやうに土中にうづめ、又はわらにつゝみ、桶に入れてこほらざらしむ。其外雪の用意に種々(しゅ/”\)の造作をなす事筆に尽しがたし。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.8~12)
・・・
○雪の用意(ようい)
|| 前(まへ)にいへるがごとく、雪降(ふら)んとするを量(はか)り、雪に損ぜられぬ為に屋上(やね)に修造(しゆざう)を加(くは)へ、梁(うつばり)・柱・廂(ひさし) 家の前の屋翼(ひさし)を里言に〔らうか〕といふ、すなはち廊架(らうか)なり 其外すべて居室に係る所力弱(ちからよはき)はこれを補(おぎな)ふ。雪に潰(つぶさ)れざる為也。
■雪が降りそうな様子を見て、雪害を最小化するための色々の工夫をします。
家屋は修繕をします。梁や柱や庇などです。
家の前の庇のことを、越後ではろうか(廊架)といいます。雁木のことですね。
その他全ての家屋に関わる場所で、弱い個所は補強をします。
雪に潰されないようにする為です。
||庭樹(にはき)は大小に随(したが)ひ枝の曲(ま)ぐべきはまげて縛束(しばりつけ)、【椙丸太(すぎまるた)】又は竹を添へ、杖(つゑ)となして枝を強(つよ)からしむ。【雪折(を)れ】をいとへば也。
■庭木は、それぞれの大きさによって、枝を寄せても良いものは曲げて縄で縛り付けます。
細木(杉丸太)や竹を添えて、雪折れしないように支えの杖として枝が折れないようにします。
||冬草の類(るゐ)は菰莚(こもむしろ)を以、覆ひ包む。
■また、小木や枯れない植物などには、コモやムシロで包んで覆いをします。
||井戸は小屋を懸(かけ)、厠(かはや)は雪中其物を荷(になは)しむべき備(そな)へをなす。
■井戸には小屋掛けをします。便所は冬の間に便桶が一杯になってしまわないように、汲み取りなどをして準備しておきます。
||雪中には一点の野菜もなければ、家内の人数(にんず)にしたがひて雪中の食料(しよくれう)を貯(たくは)ふ。
■雪の冬の間は、畑で野菜の採取も出来ません。その家で冬季間に食いつなげるだけの食料を貯えておきます。
||あたゝかなるやうに土中にうづめ、又はわらにつゝみ、桶に入れてこほらざらしむ。
■暖気を保持するように地中に埋めたり、または藁で包んで桶等に保存して凍結しないようにします。
||其外雪の用意に種々(しゅ/”\)の造作をなす事筆に尽しがたし。
■そのほか、冬の間中の生活の為の準備作業は、とても書ききれるものではありません。
初雪(北越雪譜) ― 2018/01/07 04:21
北越雪譜初編 巻之上
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○初雪(はつゆき)
暖国の人の賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降(ふら)ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしやう)し、雪見の船に歌妓(かぎ)を携(たづさ)へ、雪の茶の湯に賓客(ひんかく)を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつゞけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゆてい)は雪を来客(らいかく)の嘉瑞(かずゐ)となす。雪の為に種々の遊楽(いうらく)をなす事枚挙(あげてかぞへ)がたし。雪を賞するの甚しきは繁花(はんくわ)のしかしむる所也。雪国の人これを見これを聞きて羨(うらやま)ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比(くらぶ)れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥のちがひ也。そも/\越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰とし、地は東南に足(たら)ず、ゆゑに東南を陽とす。越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山(かうざん)連(つらな)りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑(しよいふ)は雪深し。是陰陽の前後したるに似たり。我住(わがすむ)魚沼郡(うをぬまこほり)は東南の陰(いん)地にして・巻機山(まきはたやま)・苗場山(なへばやま)・八海山(はつかいさん)・牛(うし)が嶽(たけ)・金城山(きんじやうさん)・駒(こま)が嶽(たけ)・兎(うさぎ)が嶽(たけ)・浅草山(あさくさやま)等の高山(かうざん)其余他国に聞こえざる山々波濤のごとく東南に連(つらな)り、大小の河々(かは/”\)も縦横(たてよこ)をなし、陰気充満して雪深き山間(やまあひ)の村落なれば雪の深きをしるべし。冬は日南の方を周(めぐる)ゆゑ北国はます/\寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也。我国初雪を視る事遅(おそき)と速(はやき)とし其年の気運寒暖につれて均(ひとし)からずといへども、およそ初雪は九月の末(すゑ)十月の首(はじめ)にあり。我国の雪は鵞毛をなさず。降時はかならず粉砕(こまかき)をなす。風又これを助く。故に一昼夜に積所(つもるところ)六七尺より一丈に至る時もあり。往古(むかし)より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし。されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興(ぎんえいいうきよう)のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(ゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷(へんきやう)の寒国(かんこく)に生れたる不幸といふべし。雪を観て楽(たのし)む人の繁花(はんくわ)の暖地に生(うまれ)たる天幸を羨(うらやま)ざらんや。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.13~14)
・ ・ ・
○初雪(はつゆき)
|| 暖国の人の賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降(ふら)ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしやう)し、雪見の船に歌妓(かぎ)を携(たづさ)へ、雪の茶の湯に賓客(ひんかく)を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつゞけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゆてい)は雪を来客(らいかく)の嘉瑞(かずゐ)となす。雪の為に種々の遊楽(いうらく)をなす事枚挙(あげてかぞへ)がたし。雪を賞するの甚しきは繁花(はんくわ)のしかしむる所也。
■ トカイ人の雪を愛でることについては、前節でも書いたとおり。
江戸方面では、雪の降らない年もあるので、それはそれは珍しがる。
雪見の船に芸妓をはべらせ、賓客を招いて雪見障子の内に焜炉の釜で茶を立てる。
吉原では、あれ♪雪じゃいな~と、客は居続けの言い訳にしてしまう。
居酒屋屋台は、千客万来と仕込みの準備だ。
何につけてもトカイの人は雪をいい事に、遊ぶことを考える例は枚挙に暇(いとま)なしだ。
雪で一番喜ぶのは、遊興行楽客引き商売だ。
||雪国の人これを見これを聞きて羨(うらやま)ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比(くらぶ)れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥のちがひ也。
■雪に埋もれた地では、これを聞いてうらやましがらない人はいない程だ。
我が越後の初雪とトカイの初雪とを比べてみれば、行楽と苦行とそれは眞逆のことなのです。
||そも/\越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰とし、地は東南に足(たら)ず、ゆゑに東南を陽とす。越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山(かうざん)連(つらな)りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑(しよいふ)は雪深し。是陰陽の前後したるに似たり。
■日本列島を眺めるに、越後の国は北方に当るので“陰”の地といえるのです。
陰のその地のなかをみると、陰陽が逆転していることになるのです。
その訳は、先ず「“西北”は陰、“南東”は陽」ということを押さえておいてください。
日本全体の地勢
〈陰〉西北、戌亥・乾(いぬい・けん)、越後の国
〈陽〉東南、辰巳・巽(たつみ・そん)、
越後の国の地勢
〈陰の方角〉西北には、日本海、海は陽なのです。
〈陽の方角〉東南には、連なる高山、山は陰なのです。
それなので、西北(海側)の地方は雪が少なくて、東南(山側)の僻村は雪が深いのです。
つまりは、これは陰陽が逆転している地である、とは言えまいか。
(※よく判りませんが、そういう理屈らしい(笑))
||我住(わがすむ)魚沼郡(うをぬまこほり)は東南の陰(いん)地にして・巻機山(まきはたやま)・苗場山(なへばやま)・八海山(はつかいさん)・牛(うし)が嶽(たけ)・金城山(きんじやうさん)・駒(こま)が嶽(たけ)・兎(うさぎ)が嶽(たけ)・浅草山(あさくさやま)等の高山(かうざん)其余他国に聞こえざる山々波濤のごとく東南に連(つらな)り、大小の河々(かは/”\)も縦横(たてよこ)をなし、陰気充満して雪深き山間(やまあひ)の村落なれば雪の深きをしるべし。
■しかして、日本の北西の地(陰)であるところの越後の国のその中の魚沼郡は、
方角では陽の地(越後の中の南東部)であるのに、地形では陰(山々)となるのです。
日本有数の名山からはたまた無名の山まで怒涛の如く連山を成しているのです。
また大小の河川が縦横している、魚沼の地は陰気満々の山間村落なのです。
これによっても雪の深さを推し測れまいかのう。
||冬は日南の方を周(めぐる)ゆゑ北国はます/\寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也。
■冬は太陽の運行は南行するので、北国はますま寒いのです。
室内にいても、北側は寒くて南側は暖かいのと同じ理屈です。
||我国初雪を視る事遅(おそき)と速(はやき)とし其年の気運寒暖につれて均(ひとし)からずといへども、およそ初雪は九月の末(すゑ)十月の首(はじめ)にあり。
■こういう地域なので、年毎の巡りで遅速はありますが、初雪の時期は大体九月末から十月初旬(陰暦)となるのです。
||我国の雪は鵞毛をなさず。降時はかならず粉砕(こまかき)をなす。風又これを助く。故に一昼夜に積所(つもるところ)六七尺より一丈に至る時もあり。往古(むかし)より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし。
■この地の雪は、はらりはらはらと舞う羽毛の様にはならないのです。
降る時には必ず粒に固まった様になって吹雪くのです。これに風が勢いをつける。
それなので、一昼夜もあれば積もる場所では、2メートルから3メートルになることもあるのです。
昔々より、現在にいたるまで雪が降らない年などは無いのです。
||されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興(ぎんえいいうきよう)のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(ゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷(へんきやう)の寒国(かんこく)に生れたる不幸といふべし。
■だから、トカイ人のように、初雪を見て吟行朗詠、はては呑めや歌えのどんちゃん騒ぎの楽しみは考えられないのです。
嗚呼、今年もまた半年は雪の中にあり、雪に泣き、辺境寒国の地に生れ合わせたことを歎くのです。
||雪を観て楽(たのし)む人の繁花(はんくわ)の暖地に生(うまれ)たる天幸を羨(うらやま)ざらんや。
■雪を見て楽しめる享楽繁華の地に生れなすった僥倖はせいぜい感謝しないといけませんぜ>あなたの事だ!トカイ人へ。
※んなことは書いてませんが(笑)。
天保年代の作者(鈴木牧之か山東京山)のご意見は原文で読んでね。『北越雪譜』1836年初編。
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○初雪(はつゆき)
暖国の人の賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降(ふら)ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしやう)し、雪見の船に歌妓(かぎ)を携(たづさ)へ、雪の茶の湯に賓客(ひんかく)を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつゞけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゆてい)は雪を来客(らいかく)の嘉瑞(かずゐ)となす。雪の為に種々の遊楽(いうらく)をなす事枚挙(あげてかぞへ)がたし。雪を賞するの甚しきは繁花(はんくわ)のしかしむる所也。雪国の人これを見これを聞きて羨(うらやま)ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比(くらぶ)れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥のちがひ也。そも/\越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰とし、地は東南に足(たら)ず、ゆゑに東南を陽とす。越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山(かうざん)連(つらな)りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑(しよいふ)は雪深し。是陰陽の前後したるに似たり。我住(わがすむ)魚沼郡(うをぬまこほり)は東南の陰(いん)地にして・巻機山(まきはたやま)・苗場山(なへばやま)・八海山(はつかいさん)・牛(うし)が嶽(たけ)・金城山(きんじやうさん)・駒(こま)が嶽(たけ)・兎(うさぎ)が嶽(たけ)・浅草山(あさくさやま)等の高山(かうざん)其余他国に聞こえざる山々波濤のごとく東南に連(つらな)り、大小の河々(かは/”\)も縦横(たてよこ)をなし、陰気充満して雪深き山間(やまあひ)の村落なれば雪の深きをしるべし。冬は日南の方を周(めぐる)ゆゑ北国はます/\寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也。我国初雪を視る事遅(おそき)と速(はやき)とし其年の気運寒暖につれて均(ひとし)からずといへども、およそ初雪は九月の末(すゑ)十月の首(はじめ)にあり。我国の雪は鵞毛をなさず。降時はかならず粉砕(こまかき)をなす。風又これを助く。故に一昼夜に積所(つもるところ)六七尺より一丈に至る時もあり。往古(むかし)より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし。されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興(ぎんえいいうきよう)のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(ゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷(へんきやう)の寒国(かんこく)に生れたる不幸といふべし。雪を観て楽(たのし)む人の繁花(はんくわ)の暖地に生(うまれ)たる天幸を羨(うらやま)ざらんや。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.13~14)
・ ・ ・
○初雪(はつゆき)
|| 暖国の人の賞翫するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降(ふら)ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞(びしやう)し、雪見の船に歌妓(かぎ)を携(たづさ)へ、雪の茶の湯に賓客(ひんかく)を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(ゐつゞけ)の媒(なかだち)となし、酒亭(しゆてい)は雪を来客(らいかく)の嘉瑞(かずゐ)となす。雪の為に種々の遊楽(いうらく)をなす事枚挙(あげてかぞへ)がたし。雪を賞するの甚しきは繁花(はんくわ)のしかしむる所也。
■ トカイ人の雪を愛でることについては、前節でも書いたとおり。
江戸方面では、雪の降らない年もあるので、それはそれは珍しがる。
雪見の船に芸妓をはべらせ、賓客を招いて雪見障子の内に焜炉の釜で茶を立てる。
吉原では、あれ♪雪じゃいな~と、客は居続けの言い訳にしてしまう。
居酒屋屋台は、千客万来と仕込みの準備だ。
何につけてもトカイの人は雪をいい事に、遊ぶことを考える例は枚挙に暇(いとま)なしだ。
雪で一番喜ぶのは、遊興行楽客引き商売だ。
||雪国の人これを見これを聞きて羨(うらやま)ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比(くらぶ)れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥のちがひ也。
■雪に埋もれた地では、これを聞いてうらやましがらない人はいない程だ。
我が越後の初雪とトカイの初雪とを比べてみれば、行楽と苦行とそれは眞逆のことなのです。
||そも/\越後国は北方の陰地なれども一国の内陰陽を前後す。いかんとなれば天は西北にたらず、ゆゑに西北を陰とし、地は東南に足(たら)ず、ゆゑに東南を陽とす。越後の地勢は、西北は大海に対して陽気也。東南は高山(かうざん)連(つらな)りて陰気也。ゆゑに西北の郡村は雪浅く、東南の諸邑(しよいふ)は雪深し。是陰陽の前後したるに似たり。
■日本列島を眺めるに、越後の国は北方に当るので“陰”の地といえるのです。
陰のその地のなかをみると、陰陽が逆転していることになるのです。
その訳は、先ず「“西北”は陰、“南東”は陽」ということを押さえておいてください。
日本全体の地勢
〈陰〉西北、戌亥・乾(いぬい・けん)、越後の国
〈陽〉東南、辰巳・巽(たつみ・そん)、
越後の国の地勢
〈陰の方角〉西北には、日本海、海は陽なのです。
〈陽の方角〉東南には、連なる高山、山は陰なのです。
それなので、西北(海側)の地方は雪が少なくて、東南(山側)の僻村は雪が深いのです。
つまりは、これは陰陽が逆転している地である、とは言えまいか。
(※よく判りませんが、そういう理屈らしい(笑))
||我住(わがすむ)魚沼郡(うをぬまこほり)は東南の陰(いん)地にして・巻機山(まきはたやま)・苗場山(なへばやま)・八海山(はつかいさん)・牛(うし)が嶽(たけ)・金城山(きんじやうさん)・駒(こま)が嶽(たけ)・兎(うさぎ)が嶽(たけ)・浅草山(あさくさやま)等の高山(かうざん)其余他国に聞こえざる山々波濤のごとく東南に連(つらな)り、大小の河々(かは/”\)も縦横(たてよこ)をなし、陰気充満して雪深き山間(やまあひ)の村落なれば雪の深きをしるべし。
■しかして、日本の北西の地(陰)であるところの越後の国のその中の魚沼郡は、
方角では陽の地(越後の中の南東部)であるのに、地形では陰(山々)となるのです。
日本有数の名山からはたまた無名の山まで怒涛の如く連山を成しているのです。
また大小の河川が縦横している、魚沼の地は陰気満々の山間村落なのです。
これによっても雪の深さを推し測れまいかのう。
||冬は日南の方を周(めぐる)ゆゑ北国はます/\寒し、家の内といへども北は寒く南はあたゝかなると同じ道理也。
■冬は太陽の運行は南行するので、北国はますま寒いのです。
室内にいても、北側は寒くて南側は暖かいのと同じ理屈です。
||我国初雪を視る事遅(おそき)と速(はやき)とし其年の気運寒暖につれて均(ひとし)からずといへども、およそ初雪は九月の末(すゑ)十月の首(はじめ)にあり。
■こういう地域なので、年毎の巡りで遅速はありますが、初雪の時期は大体九月末から十月初旬(陰暦)となるのです。
||我国の雪は鵞毛をなさず。降時はかならず粉砕(こまかき)をなす。風又これを助く。故に一昼夜に積所(つもるところ)六七尺より一丈に至る時もあり。往古(むかし)より今年にいたるまで此雪此国に降ざる事なし。
■この地の雪は、はらりはらはらと舞う羽毛の様にはならないのです。
降る時には必ず粒に固まった様になって吹雪くのです。これに風が勢いをつける。
それなので、一昼夜もあれば積もる場所では、2メートルから3メートルになることもあるのです。
昔々より、現在にいたるまで雪が降らない年などは無いのです。
||されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興(ぎんえいいうきよう)のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(ゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷(へんきやう)の寒国(かんこく)に生れたる不幸といふべし。
■だから、トカイ人のように、初雪を見て吟行朗詠、はては呑めや歌えのどんちゃん騒ぎの楽しみは考えられないのです。
嗚呼、今年もまた半年は雪の中にあり、雪に泣き、辺境寒国の地に生れ合わせたことを歎くのです。
||雪を観て楽(たのし)む人の繁花(はんくわ)の暖地に生(うまれ)たる天幸を羨(うらやま)ざらんや。
■雪を見て楽しめる享楽繁華の地に生れなすった僥倖はせいぜい感謝しないといけませんぜ>あなたの事だ!トカイ人へ。
※んなことは書いてませんが(笑)。
天保年代の作者(鈴木牧之か山東京山)のご意見は原文で読んでね。『北越雪譜』1836年初編。
雪の堆量(北越雪譜) ― 2018/01/07 21:45
雪の堆量(北越雪譜)
北越雪譜初編 巻之上
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○雪の堆量(たかさ)
余が隣宿(りんしゆく)六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄(つまありのしやう)にあそびし頃聞きしに、千隈(ちくま)川の辺(ほとり)の雅(が)人、初雪(しよせつ)より 天保五年をいふ 十二月廿五日までの間、雪の下(くだ)る毎に用意したる所の雪を尺(しやく)をもつて量りしに雪の高さ十八丈ありしといへりとぞ、此(この)話雪国の人すら信じがたくおもへども、つらつら思量(おもひはかる)に、十月の初雪より十二月廿五日までおよその日数(ひかず)八十日の間に五尺づゝの雪ならば廿四丈にいたるべし。随(したがつて)て下(ふれ)ば随(したがつ)て掃(はら)ふ処は積(つん)で見る事なし。又地にあれば減(へり)もする也。かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷(しんざんいうこく)の深(ふかき)事ははかりしるべからず。天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話(はなし)誣(し)ふべからず。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.15)
・ ・ ・
○雪の堆量(たかさ)
|| 余が隣宿(りんしゆく)六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄(つまありのしやう)にあそびし頃聞きしに、千隈(ちくま)川の辺(ほとり)の雅(が)人、初雪(しよせつ)より 天保五年をいふ 十二月廿五日までの間、雪の下(くだ)る毎に用意したる所の雪を尺(しやく)をもつて量りしに雪の高さ十八丈ありしといへりとぞ、此(この)話雪国の人すら信じがたくおもへども、つらつら思量(おもひはかる)に、十月の初雪より十二月廿五日までおよその
日数(ひかず)八十日の間に五尺づゝの雪ならば廿四丈にいたるべし。
■以下の話は、わたし(牧之)の隣町に住む六日町の俳諧友達、天吉翁が【妻有(つまり)の庄】に行った時に聞いたという。
信濃川のほとりに住む風流人が天保5年に十二月二十五日までの間、雪が降るたびに【尺】で測ったそうな。
その結果は十八丈(54メートル)になったと言うのです。
この数字はいくら雪国の人でもにわかに信じ難いと思うかもしれません。
よく考えてみると、十月の初雪から十二月二十五日までであれば、その間八十日。
毎日五尺(1.5メートル)の降雪があったら、二十四丈(120メートル)である。
ここに、【妻有(つまり)の庄】が出てきます。
注釈には、中世の庄園名に由来する十日町・中魚沼郡の古称。とあり。
【天吉老人】(注釈あり)
六日町の天王山吉祥院住職吉川知可良の通称。魚沼俳壇の重鎮で四方の春・あしか・俳諧摘要などの著がある。安政二年(1855)没、七十六。
||随(したがつて)て下(ふれ)ば随(したがつ)て掃(はら)ふ処は積(つん)で見る事なし。又地にあれば減(へり)もする也。
■降るたびごとに雪を片付けてしまうので、積上げた形では見えないのです。
また、地面にあれば固まって(詰ってくる)高さは減るものです。
※これは、降雪量と積雪量の違いですね。
||かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷(しんざんいうこく)の深(ふかき)事ははかりしるべからず。
■このことで思うに、北越の深山幽谷の雪の深いことは、はかり知れないのです。
||天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話(はなし)誣(し)ふべからず。
■まさかね、と思うかもしれませんが、天保五年は近来に無い大雪だったのです。
だからこの話は、眉唾ではないのですぞ。
北越雪譜初編 巻之上
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人 百樹 刪定
○雪の堆量(たかさ)
余が隣宿(りんしゆく)六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄(つまありのしやう)にあそびし頃聞きしに、千隈(ちくま)川の辺(ほとり)の雅(が)人、初雪(しよせつ)より 天保五年をいふ 十二月廿五日までの間、雪の下(くだ)る毎に用意したる所の雪を尺(しやく)をもつて量りしに雪の高さ十八丈ありしといへりとぞ、此(この)話雪国の人すら信じがたくおもへども、つらつら思量(おもひはかる)に、十月の初雪より十二月廿五日までおよその日数(ひかず)八十日の間に五尺づゝの雪ならば廿四丈にいたるべし。随(したがつて)て下(ふれ)ば随(したがつ)て掃(はら)ふ処は積(つん)で見る事なし。又地にあれば減(へり)もする也。かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷(しんざんいうこく)の深(ふかき)事ははかりしるべからず。天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話(はなし)誣(し)ふべからず。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.15)
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○雪の堆量(たかさ)
|| 余が隣宿(りんしゆく)六日町の俳友天吉老人の話に、妻有庄(つまありのしやう)にあそびし頃聞きしに、千隈(ちくま)川の辺(ほとり)の雅(が)人、初雪(しよせつ)より 天保五年をいふ 十二月廿五日までの間、雪の下(くだ)る毎に用意したる所の雪を尺(しやく)をもつて量りしに雪の高さ十八丈ありしといへりとぞ、此(この)話雪国の人すら信じがたくおもへども、つらつら思量(おもひはかる)に、十月の初雪より十二月廿五日までおよその
日数(ひかず)八十日の間に五尺づゝの雪ならば廿四丈にいたるべし。
■以下の話は、わたし(牧之)の隣町に住む六日町の俳諧友達、天吉翁が【妻有(つまり)の庄】に行った時に聞いたという。
信濃川のほとりに住む風流人が天保5年に十二月二十五日までの間、雪が降るたびに【尺】で測ったそうな。
その結果は十八丈(54メートル)になったと言うのです。
この数字はいくら雪国の人でもにわかに信じ難いと思うかもしれません。
よく考えてみると、十月の初雪から十二月二十五日までであれば、その間八十日。
毎日五尺(1.5メートル)の降雪があったら、二十四丈(120メートル)である。
ここに、【妻有(つまり)の庄】が出てきます。
注釈には、中世の庄園名に由来する十日町・中魚沼郡の古称。とあり。
【天吉老人】(注釈あり)
六日町の天王山吉祥院住職吉川知可良の通称。魚沼俳壇の重鎮で四方の春・あしか・俳諧摘要などの著がある。安政二年(1855)没、七十六。
||随(したがつて)て下(ふれ)ば随(したがつ)て掃(はら)ふ処は積(つん)で見る事なし。又地にあれば減(へり)もする也。
■降るたびごとに雪を片付けてしまうので、積上げた形では見えないのです。
また、地面にあれば固まって(詰ってくる)高さは減るものです。
※これは、降雪量と積雪量の違いですね。
||かれをもつて是をおもへば、我国の深山幽谷(しんざんいうこく)の深(ふかき)事ははかりしるべからず。
■このことで思うに、北越の深山幽谷の雪の深いことは、はかり知れないのです。
||天保五年は我国近年の大雪なりしゆゑ、右の話(はなし)誣(し)ふべからず。
■まさかね、と思うかもしれませんが、天保五年は近来に無い大雪だったのです。
だからこの話は、眉唾ではないのですぞ。
彼の地に特有の文化の発顕ことについて ― 2018/01/07 22:16
【与太話:彼の地に特有の文化の発顕ことについて】
〔on Facebook〕
||彼の地は昔からそういう文化人が多いってことですか。
しかしですね、彼の地近辺はつい近年は超ローカルな「妻有(つまり)」などという過疎地がいきなりアートの展示場になったりしている。たしか県立博物館館長となられた赤坂憲雄氏(民俗学者)が関られて、ビエンナーレ展とかを311の少し前から企画開催されたりした。
妻有の地は、地名が残っていた事がとても重要になってきているのではないかと愚考するのです。「つまり」という地名は、中世の庄園名に由来する十日町市・中魚沼郡地方の古称だというのです(これは、わたしが引いている「校註北越雪譜」の注釈にも書かれている)。
がしかし、わたしは“妻有”は途中で字が好字に変えられたのではないかと思っています。どういう字だったか、それはつまり“詰りの庄”です。これより奥には人が住めないという詰りの地です。
では何故そのような彼の地に文化が発生していたかいうと、これはマレビトが媒介したに違いありません。
何故そのようなマレビトが彼の地のような過疎地を訪ねたのか、というと、その時代をつらつら考えるに、天明の飢饉とか天保の飢饉といった異変でトカイでは生計を営めなくなっていた。
文人墨客ついでに宗教人(坊主・山伏・似非御師)が地方の中堅都市ではなく、情報(ニュース)の伝わりにくいその奥の過疎地にまで入り込んだのではないかと思うのです。食い扶持繋ぎにです。
その地に残った(と思われる)特有固有な文化というのは、えてして、このような事がトリガ(引金)となっているのではと思うのです。
と。すみませんすみません、わたしゃ、その詰りの庄から山古志山越した先の奥会津の生まれです(笑)。
(ここまで)
投稿してから、“つまり”の地名のことはどこかで読んだかした気がしてきました、「記憶にない」のですがどこかで聞きかじったか(笑)。
聞きかじったとすれば、どなたからかの文章(か会話)かは思い当たってしまうのです(^^;こら!
||是(これ)余(よ)が発明にあらず諸書(しよしよ)に散見したる古人(こじん)の説也。
としておきます。
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