北越雪譜初編 巻之中
越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
江 戸 京山人百樹 刪定
○越後縮(ちゞみ)
ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。
縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。
・ ・ ・
○越後縮(ちゞみ)
|| ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。
〈ちぢみの呼称について〉
■ 〔ちゞみ、ちぢみ〕の文字は、普通に使われる“縮”の字を使うことにします。
また〔しゞみ、しじみ〕と読んだ方が良い物も“ちゞみ、ちぢみ”としておく事にします。
※簡便辞書によると、以下の文字あたりが、〔ちぢみ〕と同類らしい。
【蜆:しじみ】しじむ(蹙・縮)と同源。殻の表面に縮んだ文様があるところから。
【顰・蹙・獅噛:しかみ】しわがよること。
|| 縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。
〈越後の国でも魚沼郡の産物なり〉
■縮は〔越後の名産〕として日本中に知られています。
そしてそれは越後国(現新潟県)中で作られていると思うかもしれませんが、実はそうではないのです。
〔越後縮〕と呼ばれるものは、越後国の魚沼郡に限られる産物なのです。
||他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。
■他国でも縮を作りますが、ほんの僅かで、品質においては魚沼郡産とは比べ物になりません。
||そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。
〈縮は新しい呼び方〉
■そもそも〔縮、ちぢみ〕という呼び方は近頃のことで、古来は〔布(ぬの)〕とだけ呼んでいたのです。
布とは本来の意味は、〔を〕を織った物の総称なのでした。
今も塩沢あたりでは婆様たちは「今日は〔ぬの〕さ市に持って行きなせ」と言うように古言としても残っているのです。
※【縮と唱ふるは近来の事】延宝九年(一六八一)小千谷村郷帳などに縮役のことが見え、この頃から「縮」の語が使われたものと思われる(本書説明文より)。
※〔を〕は、麻・苧(からむし)・葛(くず)などの植物の茎から取出した繊維(掲載氏の解釈含む)。
||東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。
〈文献調査〉
■『東鑑』には、建久三(1192)年に源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉へ戻る時の餞別の事を記した条(くだり)に“越布千端”(「越後」の「布」千反)とあるのです。
※つまり、建久の頃には「布」と呼称していたし、名産地としての「越後」の地名も見えるという証左。
||猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。
■もっと古い書物にもありますが、そこまでは調べなくても良いでしょう。
||後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。
■それより後代では室町幕府に仕えた伊勢家の文書などにも「越後布」という表記が沢山あるのです。
※この項も、本書に説明文あり。
||さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。
■これらの史料によっても、むかしから〔布〕と呼ばれていた縮は〔越後〕の名産であったことが推測できるのです。
||愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。
〈なぜ縮(ちぢみ)と呼ばれるか-私案(鈴木牧之)〉
■わたしはこういう経緯ではないかと想像するのです。
・むかしから“越後布”は布の上品であった。(平織り、生平の時代?)
・その後織りの技術の創意工夫により、糸に縒りを強くかけることによって皺のある(しじませた)布を作るようになった。これは、汗をしのぎやすい。
・それで〔しじみ布〕というようになったが、〔しじみ〕となり〔ちぢみ〕と変遷した。
・このようにして、年々織りの技術も向上して、布の地にも美的感覚が加味されて、〔ちぢみ〕という名前だけが残った。
||我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。
〈ブランドとして進化する背景〉
■わたしの幼少の頃を思い出してみると、
・模様を織り出したり、錦織り専用の機織(はたおり)の道具なども製作できてきました。
・どんなに複雑な模様でも織る事ができて、縞(しま)も絣(かすり)も上手になって、そこから益々新しい技巧が工夫されたのです。
||機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。
■これには、機織の女性も賢くなってきたからだと思います。
※幾何学計算と、二進法など算法知識のことも含めてのことなのでしょうね(掲載子の感想)。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。