130503_奥会津昭和村へ(バス) ― 2013/05/10 02:14
130503_奥会津昭和村のスカイツリー(空木) ― 2013/05/10 23:30
村内田んぼの近くには、たいていどこにでもある(あった)。
「細木巻き」という。ほぼ真っ直ぐな木を立てかけてまとめてある。
これは、刈り取った稲を乾燥させるための稲架(はざ)を組み立てるための木である。
一定間隔で柱となる木を立てて、その柱に一定間隔で並行に木を4段から5段ほど組み上げる。
そこに、刈り取った稲束を「人」の字のように二つに割って、架けて自然乾燥させたのです。
稲刈りと同時に脱穀までしてしまう機械が出来てからは、使われなくなった。
が、今でも稲架(はざ)を使っている田んぼも時々は見かける。ただそれらは、ほとんどが鉄パイプで組み立てられるのが多い。
また、田んぼに関わる臨時の土木作業、ぬかる畦道(あぜみち)の臨時補修とか、畦と田んぼを移動する場合の通路用の仮橋とかにも使われた。
もっともっと昔は、臨時の出小屋として構築される基本部材にもなったかも知れない。
かくも融通無碍の野良の大道具でもあったのである。(想像)。
細木巻きは、昔は年に一回は使われるのでその場所から移動して、稲架となって稲の乾燥が終わると再び元の場所に、立てかけ直すので、細木巻きはしゃんと立っていた。
今は、使われることがなくなったので、経年の重力と気候(雨風雪)のせいでその円錐状の構築物そのものが傾いてしまったりしている。
小中津川の旧道に掛かる橋。
130503_奥会津昭和村小中津川 ― 2013/05/10 23:44
130503_からむし織の里のからむし市 ― 2013/05/10 23:50
ヒロアキさんの大芦のフィールドワークに誘っていただいた。
■からむし織の里にて
織姫交流館
カラムシ市風景
大芦村(明治、大正期に昭和村はなかった)からは、旧ロシアのグルジアまで、カラムシ栽培の指導のために出かけた夫婦がいる。
五十嵐善作・ハツ夫妻である。
そして、大正時代には、大芦村の五十嵐運次・オミツ夫婦とその子と星籐太氏4人は、月ヶ瀬村の奈良晒(ならざらし)工場に4年ほど出稼ぎに行ったとの記述。
ヒロアキさんが、からむし工芸博物館の出版物「博物館シリーズ9『奈良晒と原料展』」を開いて説明してくれた。
単に出稼ぎといえば大抵は、家族で出かけるというよりも、村の中の人と連れ立つかもしれないが単身で出かけるのが普通だったのではないだろうか。
それが、カラムシに関わる村外出張は、ご夫妻で出かける例が明示されているのです。
つまり、「大芦」という地名は江戸時代このかた、カラムシとは切っても切れないブランド地だった。
そして、カラムシに関わる栽培と加工工程については男手と女手の共同作業が欠かせなかったのです。
その時代的風潮からも、男性の名前が外(表面)に出てくるのは否めないとしても、カラムシに関しては実は女性の力が大きく関与しているのではないだろうかということを踏まえて、まだまだ掘り起こすべき課題が沢山あるのです。
と、わたしは、ヒロアキさんの説明から勝手に咀嚼したのでした。
からむし工芸博物館刊行図書のURLは↓こちら(福島県昭和村 からむし織の里)。
http://www.vill.showa.fukushima.jp/kogeikan/tosyo.stm
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