別冊 恵比塵

120504_伊南へ・山口2012/05/11 00:55


120504_伊南へ・山口
峠を下って南会津町山口へ。

既にこの風景は、南会津町のランドマークと化しているのではないだろうか。
製作者は自分の楽しみとウケは狙ったとは思いますが、まずは自分自身が楽しまなければこんなことはできませんね。
月田さんの家の軒下の薪。ちゃんと「2012年」版になっている(^^;



120504_伊南へ・久川城跡2012/05/11 00:59


120504_伊南へ・久川城跡






伊南(村)の地名は知っていたが、久川城跡のことも勿論、史跡やこの後で訪問する博物館(伊南館)のこともまったく知らなかった。
とにかく、K氏の歩いていく方向について行く。








同氏は恐らく文献調査で、この場所の地形と構造は頭の中に入っているのである。
迷うことなく次の地点からその先の地点へと歩き、それを実地(フィールドワークですね)で確認する。





■120504_伊南へ・久川城関係資料

K氏は、本日のフィールドワークのためにも入念な資料を収集していた。

たまたま「雨なので伊南にでも行ってみましょうか」ではないのである。
ただ当日まで、わたしにはどこに行くかは予告はされなかった。
予告してもわたしが、その地に付いての予習をしていない可能性のほうが高いのは確かである。すみません。
わたしも、資料文献調査とまではいかずとも、帰郷前日には、去年と一昨年のGWで同行させていただいた時の事を掲載した自分のブログは印刷して読み返してはおいたのである。
それは役に立ったか?すみません、あんまり役立ちませんでしたが、少しテンションはあがりましたよ。

K氏はご自分で入手した資料の一部を既にコピーして準備されていた!。
その資料は復路で新鳥居峠を通って、大芦家に立ち寄りカウンターで蕎麦を頼んで待っている時間に、手渡して下さった。








反芻

その日(4日)、ビールを飲んで夕食を済ませて、部屋に戻ってからじっくりとそのコピーを見た。
移動中に話されていた、ガソリンスタンドの位置、伊南の河原田家の位置、伊南川流域の地勢などが少しだけ分かった。
あそこで説明されたことは、このことだったのか!と思い出して反芻してみる。
酔眼で、「はい、目を通しました」では、あまりにも安易である。
寝っ転がって読んでいたが、テーブルに座りなおして、もう一度読んだ。
資料の一部をデジカメで写してみた。「はい、デジカメに写したから、記録に残りました」では、それでも安易である。
写真を見るのではなく、その紙の資料でもう一度読んで、気づいた箇所をノートに書き写してみたのである。
ただ、わたしが書き写した箇所が正鵠をえていたかどうかはわからない。
わからないが、それを筆写する時間が、わたしのひそやかな感謝の時間である。まったくの自己満足の行為。


書き写したノートを見ながら、再度それを文字起し(パソコンにタイプ入力)したのが、以下の文章である。
(タイプミスがあるかもしれないのはあらかじめ言い訳陳謝しておきます)

伊南村史第一巻
・小塩城跡 新編会津風土記にあり
 古町付近の標高は約570mで、谷幅は約1000mを有し、数段の河岸段丘を形成している。
・久川城
 伊南川の西岸、大字青柳と大字小塩の間に位置する小丈山(標高632m) →634 おしい

 〔634 おしい〕と、メモに注記がある(笑)
これは、掲載子がずっとスカイツリーの高さ(634m)にこだわっているため、この小丈山があと2m高かったら、カラムシ生産の本場、昭和村大芦地区の周りの標高(この地がなんと標高634mなのです)とあわせて、伊南村(現在は南会津町伊南)も同じ標高圏として、奥会津の一大糸文化の聖地として名乗りを上げることは出来ないだろうか(まさに基層文化のルネッサンスだ)と妄想が割り込んできたのでした。
それを物産イベントの得意な東武グループに「標高物産展」としてスカイツリーで大イベントをしてもらうのである。東武グループさま!いかがでしょう!

・伊南川流域の下位段丘面には古くから集落や耕地が発達し、小規模ながら伊南村の水田は耕地の70%を占めている。
中世末期より伊南細美と称される良質の麻布の産地として知られ、明治以降は養蚕が主産業となり、遺跡の位置する小丈山南麓も近年まで桑畑に利用されていた。
現在、堂平地区は花の栽培など園芸農業がさかんである。
大字小塩の堂平遺跡は、縄文中期後葉から晩期にかけての遺物が出土しており、後期後半以降に営まれた墓域である。

↑これって、記載されている固有名詞を奥会津昭和村の実在地名と交換しても、ほとんど同じ史実の説明になるのではなかろうかと、またまた妄想してしまうのでした(^^;。
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