別冊 恵比塵

修羅(しゅら)の事2018/01/14 20:29

『北越雪譜』(初編 巻之上)に、【修羅】の文字が出てくる。

||   越後湯沢 鈴木  牧之 編撰
||   江  戸 京山人 百樹 刪定
||・・・
|| ○雪道(みち)
||・・・
||春は雪凍(こほり)て鉄石(てつせき)のごとくなれば、雪車(そり) 又雪舟(そり)の字をも用ふ を以て重(おもき)を用ふ。里人(りじん)は雪車に物をのせ、おのれものりて雪上を行(ゆく)事舟のごとくす。雪中は牛馬の足立ざるゆゑすべて雪車を用ふ。春の雪中重(おもき)を負(おは)しむる事牛馬(うしうま)に勝る。雪車の制作(せいさく)別に記す。形大小種々あり。大なるを【修羅(しゆら)】といふ。雪国の便利第一の用具也。しかれども雪凍りたる時にあらざれば用ひがたし。ゆゑに里人雪舟途(そりみち)と唱ふ。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.17~20)

 この、修羅の事である。簡便辞書にも載っている。

>>運搬具である。大石などを乗せて、地面にコロを設置して、その上を滑らせて運搬する装置。雪上や斜面では、自重でもすべる。
(簡便辞書より抜粋)

というような説明以外に、面白い記載を見つけた。
何故に〔しゅら〕と呼ぶのかというと、(阿)修羅は帝釈天に戦いを挑む。つまりたいしゃくを動かすのです。そうです、大石(たいしゃく)を動かすところから命名されたのだそうですよ。

奥会津では、春の雪山などで、木を山から里に下すのも修羅で運ぶという記載も見つけた。

会津にこだわる中村彰彦氏の小説の中にも出てきます。

 土塁はいずれ石垣造りにされる計画で、その石は東山の慶山(けいざん)村から伐(き)り出されることになった。会津は岩代国(いわしろのくに)ともいわれるように、盆地周辺には岩盤のしっかりした高地が多い。
 慶山村、若松城下、越後街道をむすぶ線には人夫たちがびっしりと立ちならび、コロや修羅車によって巨石が運ばれてくると声をそろえて引き縄を引いた。普請奉行とその手代たちは万一の事故にそなえ、柿色の手拭い鉢巻姿で騎乗してその近くを駈けまわる。 
《東に名臣あり 花に背いて帰らん 直江山城守兼続(やましろのかみかねつぐ)》
『東に名臣あり 家老列伝』中村彰彦・文春文庫より(P.92)

実は、この修羅は、『北越雪譜』の別の章で「大持(だいもち)引き」として、出てくるのです。
この抜書きをしている同じ本「校註 北越雪譜」野島出版の178頁に、「○橇(そり)」という章立てがある。
そこに載っている文章の内容と図は、奥会津昭和村大芦でしばらく前から行事として復活させた「デエモチ(大持)引き」を髣髴させるのです。
そして、奥会津昭和村大芦の五十嵐唯一さんがご自分が描かれた絵画(油絵)をすみれ荘に寄贈されていた、それが「大持引」の絵なのです。ことを知ったのもつい数ヶ月前の事でした。

ご存知の方にはとっくに既知のことかも知れないことだが、この事に気づいたときの掲載子のユリイカとして投稿しておきます(^^;
(さて、この抜書きは、その頁までたどり付けるのだろうか、、、こら!)



胎内潜(北越雪譜)2018/01/14 21:17

胎内潜(北越雪譜)

北越雪譜初編 巻之上
   越後湯沢 鈴木  牧之 編撰
   江  戸 京山人 百樹 刪定

 宿場と唱(となふ)る所は家の前に庇(ひさし)を長くのばして架(かく)る、大小の人家すべてかくのごとし。雪中はさら也、平日も往来(ゆきゝ)とす。これによりて雪中の街(ちまた)は用なきが如くなれば、人家の雪をこゝに積(つむ)。次第に重(かさなり)て両側の家の間に雪の堤(つゝみ)を築(きづき)たるが如し。こゝに於て所々(ところ/\)に雪の洞(ほら)をひらき、庇より庇に通ふ、これを里言(さとことば)に胎内潜(たいないくゞり)といふ。又間夫(まぶ)ともいふ。間夫とは金堀(かねほり)の方言(ことば)なるを借(かり)て用ふる也。間夫の本義は妻妾(さいせう)の奸淫(かんいん)するをいふ。宿外の家の続(つゞか)ざる処は庇なければ、高低(たかびく)をなしたるかの雪の堤を往来(ゆきゝ)とす。人の足立(たて)がたき処あれば一条の道を開き、春にいたり雪堆(うづたか)き所は壇層(だん/”\)を作りて通路の便とす。形匣階(はこばしご)のごとし。所の者はこれを登下(のぼりくだり)するに脚(あし)に慣(なれ)て一歩(ひとあし)もあやまつる事なし。他国の旅人などは怖る/\移歩(あしをはこび)かへつて落(おつ)る者あり。おつれば雪中に身を埋む。視る人はこれを笑ひ、落(おち)たるものはこれを怒る。かゝる難所(なんじよ)を作りて他国の旅客(りよかく)を労(わづら)はしむる事求(もとめ)たる所為(しわざ)にあらず。此雪を取除(とりのけん)とするには人力と銭財(せんざい)とを費(つひや)すゆゑ、寸導(せめて)は壇を作りて途(みち)を開く也。そも/\初雪より歳を越て雪消(きゆ)るまでの事を繁細(はんさい)に記(しる)さば小冊には尽しがたし、ゆゑに省(はぶき)てしるさゞる事甚多し。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.21~22)

 ・ ・ ・

 ○胎内潜(たいないくぐり)

|| 宿場と唱(となふ)る所は家の前に庇(ひさし)を長くのばして架(かく)る、大小の人家すべてかくのごとし。

■宿場のある集落の家は、庇を長くして立ててあります。

||雪中はさら也、平日も往来(ゆきゝ)とす。

■雪降りの日に限らず、普段もその下を通行します。

||これによりて雪中の街(ちまた)は用なきが如くなれば、人家の雪をこゝに積(つむ)。

■これによって、他の場所は通行の場所として不要な空地になります。家の屋根と周りの雪は、その空地に積んでいくのです。

||次第に重(かさなり)て両側の家の間に雪の堤(つゝみ)を築(きづき)たるが如し。

■だんだんと積み重なると、家と家との間には大きな堤防のような壁が出来てきます。

||こゝに於て所々(ところ/\)に雪の洞(ほら)をひらき、庇より庇に通ふ、これを里言(さとことば)に胎内潜(たいないくゞり)といふ。

■この雪の台の所々には、孔を開けて、庇の下から隣の家の庇の下まで通れるようにします。
これを、地元では【胎内潜(たいないくゞり)】と言います。

||又間夫(まぶ)ともいふ。間夫とは金堀(かねほり)の方言(ことば)なるを借(かり)て用ふる也。間夫の本義は妻妾(さいせう)の奸淫(かんいん)するをいふ。

■また、【間夫(まぶ)】ともいいます。
まぶ(間府)とは、元々は鉱山の穴の事で坑道(横穴)から由来した命名ですが、密通男の通い路のような名前にもなっているのですね。

||宿外の家の続(つゞか)ざる処は庇なければ、高低(たかびく)をなしたるかの雪の堤を往来(ゆきゝ)とす。

■宿屋の家が続いていない場所は軒下が無いので、積上げて高低差のある台状になった雪の上を歩くしかありません。

||人の足立(たて)がたき処あれば一条の道を開き、春にいたり雪堆(うづたか)き所は壇層(だん/”\)を作りて通路の便とす。形匣階(はこばしご)のごとし。

■人が登れないほどの高さの場所では一筋の通路を掘ります。
春先になってその山が益々高くなった所には、階段を作って昇り降りが出来るようにします。
その形は、箱梯子(はこばしご)のようになります。

||所の者はこれを登下(のぼりくだり)するに脚(あし)に慣(なれ)て一歩(ひとあし)もあやまつる事なし。

■地元の人は慣れているので、その段を上手く昇り降りします。

||他国の旅人などは怖る/\移歩(あしをはこび)かへつて落(おつ)る者あり。おつれば雪中に身を埋む。

■よそから来た人は、恐る恐る一歩一歩足を運ぶのですが、滑って落ちる人もいます。
そこから落ちると、深雪の中に埋もれてしまうのです。

||視る人はこれを笑ひ、落(おち)たるものはこれを怒る。かゝる難所(なんじよ)を作りて他国の旅客(りよかく)を労(わづら)はしむる事求(もとめ)たる所為(しわざ)にあらず。

■それを見た人は大笑いしますが、落ちた当人はそれどころではないので怒り出します。
かといって、その様な場所を設置してよそ者を苦労させて笑う為にわざわざ作ったテーマパークとかではないのです。

||此雪を取除(とりのけん)とするには人力と銭財(せんざい)とを費(つひや)すゆゑ、寸導(せめて)は壇を作りて途(みち)を開く也。

■この場所を除雪する為には多大な人力と経費が掛かってしまうのです。
それでも、せめて壇にして通行出来るようにしているのです。

||そも/\初雪より歳を越て雪消(きゆ)るまでの事を繁細(はんさい)に記(しる)さば小冊には尽しがたし、ゆゑに省(はぶき)てしるさゞる事甚多し。

■初雪の季節から翌春までのこのような事々をこまごまと書いていくと、この本が出来上がらなくなってしまう(泣)。
それなので省略して書いていないことが沢山あるのです。
※(牧之の文章をなるべくそのまま載せたい京山と版元との確執かも(笑))



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