別冊

縮の種類(北越雪譜)2/22018/02/12 00:28

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○縮(ちゞみ)の種類(しゆるゐ)2/2

||▲白縮は堀の内町在(ざい)の村々-これを堀の内組といふ-又浦佐(うらさ)組小出嶋(こでじま)組の村々▲模様るゐ或は飛白(かすり)、いはゆる藍錆(あゐさび)といふは塩沢(しほざわ)組の村々 ▲藍●(あゐじま)は六日町組の村々 ▲紅桔梗縞(べにききやうしま)のるゐは小千谷(をぢや)組の村々 ▲浅黄織(あさぎじま)のるゐは十日町組の村々也。又紺の弁慶縞(べんけいじま)は高柳郷(たかやなぎごう)にかぎれり。右いづれも魚沼一郡の村々也。此余(よ)ちゞみを出(いだ)す所二三ケ所あれど、専らにせざればしばらく舎(おき)てしるさず。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.62)

■〈名前と主な組(村)〉
【白縮】堀の内組(堀の内村を中心に二十九村)、浦佐組(浦佐村を中心に五十四村)、小出嶋組(小出島村を中心に三十九村)。
【模様類または絣】いわゆる【藍錆】は塩沢組(塩沢を中心に五十八村)。
【藍●(あいじま)】六日町組(六日町村を中心に六十六村)。●は、“糸”と”浸”の右側ぶ一文字。
【紅桔梗縞】小千谷組(小千谷を中心に三十八村)。
【浅黄織】十日町組(十日町村を中心に十九村)。
【紺の弁慶縞】高柳郷限定(高柳郷は魚沼郡の隣の郷)。

||縮は右村里の婦女(ふじよ)らが雪中に籠(こも)り居(を)る間(あひだ)の手業(てわざ)也。およそは来年売(うる)べきちゞみを、ことしの十月より糸をうみはじめて次の年二月なかばに晒しをはる。

 〈製作の季節〉
■縮といわれる品は上記の各村里(集落)の女性の冬中の手作業で作ります。
来年に売る分だけの縮を作ります。
十月から糸績みを始めて、翌年二月半ば迄には織り終えて、晒し上げます。

||白縮はうち見たる所はおりやすきやうなれば、たゞ人は文(あや)あるものほどにはおもはざれども、手練(しゆれん)はよく見ゆるもの也。村々の婦女たちがちゞみに丹精を尽す事なか/\小冊(さつ)には尽しがたし、其あらましを下に記(しる)せり。

 〈手練の技術〉
■例えば、白縮などは、傍目にみると織り易そうに見えます。
知らない人は、模様のあるほどには難しくないだろうと思うかもしれませんが、
その織りの素晴らしさは織った手練の結果としてよく見えるのです。
村々の機織女たちがどれほどの丹精を尽くすかの説明は、一冊の本では書ききれません。
その概略については、次節以降に書いていきます。

※意訳少し無理ありかも(掲載子)。次の章からはもっと恐い(笑)。



縮の種類(北越雪譜)1/22018/02/12 00:24

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○縮(ちゞみ)の種類(しゆるゐ)1/2

 魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりて出(いだ)せ品(しな)にさだめあり。こは自(おのづか)らむかしより其品(しな)にのみ熟練して他(ほか)の品に移らざるゆゑ也。其所その品を産(いだ)す事左のごとし。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.61~62)

 ・ ・ ・

 ○縮(ちゞみ)の種類(しゆるゐ)1/2

|| 魚沼郡の内にて縮をいだす事一様ならず、村によりて出(いだ)せ品(しな)にさだめあり。こは自(おのづか)らむかしより其品(しな)にのみ熟練して他(ほか)の品に移らざるゆゑ也。其所その品を産(いだ)す事左のごとし。

 〈魚沼郡内の村ごとのおきて〉
■ “ちぢみ”と総称していますが、魚沼郡内で全部同じではありません。
村によって、その村独自の制作方法が定まっているのです。
これは、むかしから同じ品物だけを作ることに習熟してきて、他の品物に目移りしなかったからです。
それぞれの名前と、産出する組と村は以下のようになります。



越後縮(北越雪譜)2018/02/08 22:09

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○越後縮(ちゞみ)

 ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。
 縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。

 ・ ・ ・

 ○越後縮(ちゞみ)

|| ちゞみの文字普通の俗用(ぞくよう)にしたがふ、又しゞみと訓(よむ)べきをもちゞみと俗にならふ。

 〈ちぢみの呼称について〉
■ 〔ちゞみ、ちぢみ〕の文字は、普通に使われる“縮”の字を使うことにします。
 また〔しゞみ、しじみ〕と読んだ方が良い物も“ちゞみ、ちぢみ”としておく事にします。

※簡便辞書によると、以下の文字あたりが、〔ちぢみ〕と同類らしい。
 【蜆:しじみ】しじむ(蹙・縮)と同源。殻の表面に縮んだ文様があるところから。
 【顰・蹙・獅噛:しかみ】しわがよること。

|| 縮は越後の名産にして普(あまね)く世の知る処なれど、他国の人は越後一国の産物とおもふめれどさにあらず、我住魚沼郡(わがすむうをぬまこほり)一郡(ぐん)にかぎれる産物也。

 〈越後の国でも魚沼郡の産物なり〉
■縮は〔越後の名産〕として日本中に知られています。
そしてそれは越後国(現新潟県)中で作られていると思うかもしれませんが、実はそうではないのです。
〔越後縮〕と呼ばれるものは、越後国の魚沼郡に限られる産物なのです。

||他所に出(いづ)るもあれど僅(わづか)にして、其品(しな)魚沼には比しがたし。

■他国でも縮を作りますが、ほんの僅かで、品質においては魚沼郡産とは比べ物になりません。

||そも/\縮と唱ふるは近来の事にて、むかしは此国にても布(ぬの)とのみいへり。布は紵(を)にて織る物の総名(そうみやう)なればなるべし。今も我があたりにて老女など今日は布を市にもてゆけなどやうにいひて古言(こげん)ものこれり。

 〈縮は新しい呼び方〉
■そもそも〔縮、ちぢみ〕という呼び方は近頃のことで、古来は〔布(ぬの)〕とだけ呼んでいたのです。
布とは本来の意味は、〔を〕を織った物の総称なのでした。
今も塩沢あたりでは婆様たちは「今日は〔ぬの〕さ市に持って行きなせ」と言うように古言としても残っているのです。

※【縮と唱ふるは近来の事】延宝九年(一六八一)小千谷村郷帳などに縮役のことが見え、この頃から「縮」の語が使われたものと思われる(本書説明文より)。

※〔を〕は、麻・苧(からむし)・葛(くず)などの植物の茎から取出した繊維(掲載氏の解釈含む)。

||東鑑(あづまかゞみ)を案(あんず)るに、建久三壬子の年勅使帰落(きらく)の時、鎌倉殿(かまくらどの)より餞別(せんべつ)の事をいへる条(くだり)に越布(ゑつふ)千端(せんたん)とあり。

 〈文献調査〉
■『東鑑』には、建久三(1192)年に源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉へ戻る時の餞別の事を記した条(くだり)に“越布千端”(「越後」の「布」千反)とあるのです。

※つまり、建久の頃には「布」と呼称していたし、名産地としての「越後」の地名も見えるという証左。

||猶古きものにも見ゆべけれど、さのみは索(もとめ)ず。

■もっと古い書物にもありますが、そこまでは調べなくても良いでしょう。

||後のものには室町殿(むろまちどの)の営中(えいちゆう)の事ども記録せられたる伊勢家の書には越後布(ぬの)といふ事あまた見えたり。

■それより後代では室町幕府に仕えた伊勢家の文書などにも「越後布」という表記が沢山あるのです。

※この項も、本書に説明文あり。

||さればむかしより縮は此国の名産たりし事あきらけし。

■これらの史料によっても、むかしから〔布〕と呼ばれていた縮は〔越後〕の名産であったことが推測できるのです。

||愚案(ぐあんずる)に、むかしの越後布は布の上品(ひん)なる物なりしを、後々(のち/\)次第に工(たくみ)を添(そへ)て糸に縷(より)をつよくかけて汗を凌ぐ為に●(しゞま)せ織(おり)たるならん。ゆゑに●布(しゞみぬの)といひたるをはぶきてちゞみとのみいひつらん歟(か)。かくて年歴(としふ)るほどに猶工(たくみ)になりて、地を美(うつくし)くせんとて今の如くちゞみは名のみに残りしならん。

 〈なぜ縮(ちぢみ)と呼ばれるか-私案(鈴木牧之)〉
■わたしはこういう経緯ではないかと想像するのです。
・むかしから“越後布”は布の上品であった。(平織り、生平の時代?)
・その後織りの技術の創意工夫により、糸に縒りを強くかけることによって皺のある(しじませた)布を作るようになった。これは、汗をしのぎやすい。
・それで〔しじみ布〕というようになったが、〔しじみ〕となり〔ちぢみ〕と変遷した。
・このようにして、年々織りの技術も向上して、布の地にも美的感覚が加味されて、〔ちぢみ〕という名前だけが残った。

||我が稚(おさな)かりし時におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦(にしき)をおる機作(はたどり)にもをさ/\劣(おとら)ず、いかやうなるむづかしき模様をもおり、縞(しま)も飛白(かすり)も甚上手になりて種々(しゆ/”\)奇工をいだせり。

 〈ブランドとして進化する背景〉
■わたしの幼少の頃を思い出してみると、
・模様を織り出したり、錦織り専用の機織(はたおり)の道具なども製作できてきました。
・どんなに複雑な模様でも織る事ができて、縞(しま)も絣(かすり)も上手になって、そこから益々新しい技巧が工夫されたのです。

||機織婦人(はたおるをんな)たちの怜悧(かしこく)なりたる故(ゆゑ)ぞかし。

■これには、機織の女性も賢くなってきたからだと思います。

※幾何学計算と、二進法など算法知識のことも含めてのことなのでしょうね(掲載子の感想)。



玉山翁が雪の図(北越雪譜)2018/02/07 22:22

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○玉山翁(をう)が雪の図(づ)

 さきのとし玉山翁が梓行(しかう)らせれし軍物語(いくさものがたり)の画本の中に、越後の雪中にたゝかひしといふ図(づ)あり。文には深雪(みゆき)とありてしかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵(ぐんぴやう)どもが挙止(ふるまひ)を見るに雪は浅く見ゆ。
 -越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや。しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也。したがふて画者も誤(あやま)れる也。雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也。-
越後雪中の真景(しんけい)には甚しくたがへり。しかしながら画(ゑ)には虚(そらごと)もまじへざればそのさまあしきもあるべけれど、あまりにたがひたれば玉山の玉に瑕(きず)あらんも惜(をし)ければ、かねて書通(しよつう)の交(まじは)りにまかせて牧之が拙(つたな)き筆にて雪の真景種々(かず/\)写し、猶常に見ざる真景もがなと春の半(なかば)わざ/\三国嶺(みくにたふげ)にちかき法師嶺(ほふしたふげ)のふもとに在る温泉に旅(やど)りそのあたりの雪を見つるに、高き峯(みね)よりおろしたるなだれなどは、五七間(けん)ほどなる四角或は三角なる雪の長さは二三十間(けん)もあらんとおもふが谷によこたはりたる上に、なほ幾つとなく大小かさなりたるなど雪国にうまれたる目にさへその奇観ことばには尽しがたし。これらの真景をも其座(そのざ)にうつしとりたるを添(そへ)て贈りしに、玉山翁が返書に北越の雪我が机上にふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらの図(づ)をなほ多くあつめ文を添(そへ)させ私筆にて例の絵本となし候はゞ、其書雪の霏々(ひゝ)たるがごとく諸国に降(ふら)さん事我が筆下(ひつか)に在りといはれたる書翰(しよかん)今猶牧之が書笈(しよきふ)にをさめあり、此書ならずして黄なる泉(いづみ)に玉山を沈めしは惜(をしむ)べし/\。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.59~60)

 ・ ・ ・

 ○玉山翁(をう)が雪の図(づ)

|| さきのとし玉山翁が梓行(しかう)らせれし軍物語(いくさものがたり)の画本の中に、越後の雪中にたゝかひしといふ図(づ)あり。

■ 以前の事であるが、岡田玉山が出版した「絵本太閤記」に越後の雪中の戦いの図が載せてありました。

||文には深雪(みゆき)とありてしかも十二月の事なるに、ゑがきたる軍兵(ぐんぴやう)どもが挙止(ふるまひ)を見るに雪は浅く見ゆ。越後雪中の真景(しんけい)には甚しくたがへり。

■文章には、“深雪”とあってしかもその戦いは十二月の史実なのである。
ところが描かれた兵士たちの景色を見ると雪は浅く見えるのです。
越後の国の雪中の風景とは大分違っているのです。

|| -越後の雪中馬足はたちがたし、ゆゑに農人すら雪中牛馬を用ひず、いわんや軍馬をや。しかるを馬上の戦ひにしるしたるは作者のあやまり也。したがふて画者も誤(あやま)れる也。雪あさき国の人の画作なれば雪の実地をしらざるはうべ也。-

■(補記)越後の雪中では馬は歩けない。
それで地元の農民でさえも雪中に牛や馬を使う事は無い、ましてや軍馬などは使えない。
それなのに馬上の戦いまで載せたのは作者(文)の間違いなのです、それを敷衍して描いているので自ずと絵も間違い。
雪の積らない地方の人なので、実際の新雪というのを知らないのは致し方ない。

||しかしながら画(ゑ)には虚(そらごと)もまじへざればそのさまあしきもあるべけれど、あまりにたがひたれば玉山の玉に瑕(きず)あらんも惜(をし)ければ、かねて書通(しよつう)の交(まじは)りにまかせて牧之が拙(つたな)き筆にて雪の真景種々(かず/\)写し、

■絵空事がないと絵にはなりませんが、あまりに事実と相異してしまっては、せっかくの巧妙玉山の玉に傷がつく。
文通もしていたので、ついでに拙筆ながらも雪の実際の景色を色々と描いて送った。

||猶常に見ざる真景もがなと春の半(なかば)わざ/\三国嶺(みくにたふげ)にちかき法師嶺(ほふしたふげ)のふもとに在る温泉に旅(やど)りそのあたりの雪を見つるに、高き峯(みね)よりおろしたるなだれなどは、五七間(けん)ほどなる四角或は三角なる雪の長さは二三十間(けん)もあらんとおもふが谷によこたはりたる上に、なほ幾つとなく大小かさなりたるなど雪国にうまれたる目にさへその奇観ことばには尽しがたし。

■普段は見ることもない風景も描いてみようと、春半ばには三国峠の近くの法師峠の温泉宿に滞在してその辺りの雪も見た。
高い山から崩れ落ちた雪崩などは、十メートル以上もある四角か三角の雪が五十メートルほども谷に落ちているのです。
無数の大小の雪の塊が重畳しているさまなどは、雪国生れの目で見てさえも魂消るほどの奇観になっている。

||これらの真景をも其座(そのざ)にうつしとりたるを添(そへ)て贈りしに、玉山翁が返書に北越の雪我が机上にふりかゝるがごとく目をおどろかし候、これらの図(づ)をなほ多くあつめ文を添(そへ)させ私筆にて例の絵本となし候はゞ、其書雪の霏々(ひゝ)たるがごとく諸国に降(ふら)さん事我が筆下(ひつか)に在りといはれたる書翰(しよかん)今猶牧之が書笈(しよきふ)にをさめあり、

■これらの景色をその場で写生した絵を贈ると、玉山から返書が届いた。
それには、
「まさに北越の雪がわたし(玉山)の机の上に降って来たかのようで、眼福の極み。
これらの絵を沢山参考にして文章を添えて、わたし(玉山)が例の絵本(「絵本太閤記」)に絵を描いたならば、その本は降りしきる雪のように日本全国各地に売れることは、わたしの筆先一つにかかるでしょう」
などと書かれた書簡は今でもわたし(牧之)の書物箱に入っています。

||此書ならずして黄なる泉(いづみ)に玉山を沈めしは惜(をしむ)べし/\。

■この本を作る前に、冥土の泉(黄泉)に玉を沈めてしまったのです。
惜しいことでした。

【本書解説文より】P.59
||玉山翁:岡田玉山。大阪の画家で牧之と文通あり、雪譜出版にも積極的な好意を示した。
||文政九年(一八一二)没、年七十六。

※文政九年(一八一二)※◆年号と西暦年が一致していないことに気づいた。
(「校註 北越雪譜」野島出版 昭和50年2月1日 七版 を参照していますm(_ _;)m)

・・この次の章から、縮(ちぢみ)とその原材料となる「からむし」関連の文章がつづきます。
どこまで、続けられるか、緊張してまいります(^^;こら!・・
(2018年2月7日 奥会津出身/五十嵐)



寺の雪頽(北越雪譜)2018/02/06 21:47

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○寺の雪頽(なだれ)

 なだれは敢(あへ)て山にもかぎらず、形状(かたち)嶺(みね)をなしたる処は時としてなだるゝ事あり。文化のはじめ、思川村(おもひがはむら)天晶寺(てんしやうじ)の住職(じゆうしよく)執中和尚(しつちゆうおせう)は牧之が伯父(をじ)也。仲冬のすゑ此人居間の二階にて書案(つくゑ)によりて物を書(かき)てをられしが、窓の庇に下りたる垂氷(つらゝ)の五六尺なるが明りに障りて机のほとり暗きゆゑ、家の檐(のき)にいで、家僕(しもべ)が雪をほらんとてうちおきたる木鋤(こすき)をとり、かのつらゝを打(うち)をらんとて一打うちけるに、此ひゞきにやありけん-里言につらゞを〔かなこほり〕といふ、たるひとは古言にもいふ-本堂に積(つもり)たる雪の片屋根磊々(ぐら/”\)となだれおち、土蔵のほとりに清水がゝりの池ありしに和尚なだれに押落(おしおと)され池に入るべきを、なだれの勢(いきほ)ひに身は手鞠(てまり)のごとく池をもはねこえて堀揚(ほりあげ)たる雪に半身を埋められ、あとさけびたるこゑに庫裏(くり)の雪をほりゐたるしもべら馳(はせ)きたり持(もち)たる木鋤にて和尚を堀いだしければ、和尚大に笑ひ身うちを見るに聊(いさゝか)も疵(きず)うけず、耳に掛(かけ)たる目鏡(めかね)さへつゝがなく不思議の命をたすかり給ひぬ。此時七十余の老僧なりしが、前にいへる何村(なにむら)の人の不幸に比(くらぶ)れば万死に一生をえられたる天幸(てんかう)といひつべし。齢(よはひ)も八十余まで無病にして文政のすゑに遷化(せんげ)せられき。平日余(よ)に示していはれしは、我雪頽に撞(うた)れしとき筆を採りて居(ゐ)たりしは尊き仏経なりしゆゑ、たゞにやはとて一字毎に念仏中て書居(かきを)れり、しかるに雪頽に死すべかりしを不思議に命助かりしは一字念仏の功徳(くどく)にてやありけん、されば人は常に神仏(かみほとけ)を信心して悪事災難を免れん事をいのるべし、神仏(かみほとけ)を信ずる心の中(うち)より悪心はいでぬもの也、悪心の無(なき)が災難をのがるゝ第一也とをしへられき。今も猶耳に残れり。人智(じんち)を尽してのちはからざる大難にあふは因果のしからしむる処ならんか、人にははかりしりがたし。人家の雪頽にも家を潰せし事人の死たるなどあまた見聞(みきゝ)したれどもさのみはとてしるさず。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.58~59)

 ・ ・ ・

 ○寺の雪頽(なだれ)

|| なだれは敢(あへ)て山にもかぎらず、形状(かたち)嶺(みね)をなしたる処は時としてなだるゝ事あり。

■雪崩は山に限らず、斜面の形をした場所では時には雪崩が発生します。

||文化のはじめ、思川村(おもひがはむら)天晶寺(てんしやうじ)の住職(じゆうしよく)執中和尚(しつちゆうおせう)は牧之が伯父(をじ)也。

■文化年代(1804~)の初め頃のことですが、思川村天晶寺の執中和尚の話を書いてみます。
この和尚様はわたしの伯父のことです。

||仲冬のすゑ此人居間の二階にて書案(つくゑ)によりて物を書(かき)てをられしが、窓の庇に下りたる垂氷(つらゝ)の五六尺なるが明りに障りて机のほとり暗きゆゑ、家の檐(のき)にいで、家僕(しもべ)が雪をほらんとてうちおきたる木鋤(こすき)をとり、かのつらゝを打(うち)をらんとて一打うちけるに、此ひゞきにやありけん-里言につらゞを〔かなこほり〕といふ、たるひとは古言にもいふ-本堂に積(つもり)たる雪の片屋根磊々(ぐら/”\)となだれおち、土蔵のほとりに清水がゝりの池ありしに和尚なだれに押落(おしおと)され池に入るべきを、なだれの勢(いきほ)ひに身は手鞠(てまり)のごとく池をもはねこえて堀揚(ほりあげ)たる雪に半身を埋められ、あとさけびたるこゑに庫裏(くり)の雪をほりゐたるしもべら馳(はせ)きたり持(もち)たる木鋤にて和尚を堀いだしければ、和尚大に笑ひ身うちを見るに聊(いさゝか)も疵(きず)うけず、耳に掛(かけ)たる目鏡(めかね)さへつゝがなく不思議の命をたすかり給ひぬ。

■冬の二月(陰暦)末頃、寺の居間の二階で机に向かって書き物をしておりました。
窓の庇(ひさし)にツララが五六尺も下がってきて机の周りが日陰になって暗い。
軒下に出て、ツララを折ろうとしてコスキで一叩きしたのです。
(〔ツララ〕のことは〔金凍り〕というくらいだから堅いのです)。
その音の所為でしょうか、本堂に積っていた片側の屋根の雪がずしんずしんと崩れ落ちたのです。
そのまま雪崩に押し落とされると土蔵の傍の水を引いた池に落ちる。
ところが、雪崩の勢いで和尚の体は手鞠のように、池を飛び越えて庭の雪置場の雪の所まで飛ばされて体半分まで埋まってしまった。
「あっ」という和尚の声で、庫裏の周りで雪片しをしていた寺男たちが駆けつけてきて、コスキで雪を掻き出して救助した。
ところが和尚は、大笑い。体をみるとどこにも打撲の傷一つも無しで、
掛けていた眼鏡さえずれたり外れもしなかったのでした。

||此時七十余の老僧なりしが、前にいへる何村(なにむら)の人の不幸に比(くらぶ)れば万死に一生をえられたる天幸(てんかう)といひつべし。

■和尚様は七十過ぎでしたが、前述した某村の悲劇に較べれば、まさに九死に一生を得たとも言うべき天の恵みです。

||齢(よはひ)も八十余まで無病にして文政のすゑに遷化(せんげ)せられき。

■この和尚様は八十過ぎまで無病息災で過ごされ、文政の末(1830)にお亡くなりになりました。

||平日余(よ)に示していはれしは、我雪頽に撞(うた)れしとき筆を採りて居(ゐ)たりしは尊き仏経なりしゆゑ、たゞにやはとて一字毎に念仏中て書居(かきを)れり、しかるに雪頽に死すべかりしを不思議に命助かりしは一字念仏の功徳(くどく)にてやありけん、されば人は常に神仏(かみほとけ)を信心して悪事災難を免れん事をいのるべし、神仏(かみほとけ)を信ずる心の中(うち)より悪心はいでぬもの也、悪心の無(なき)が災難をのがるゝ第一也とをしへられき。

■よくわたしに言っておられたのはこのようなことでした。
雪崩に遭ったのは、ちょうど筆を持っていたのは、写経をしていたときでした。
尊い仏様の教えなので、ただ書くだけでは(もったいない)と一文字毎に念仏を唱えながら書いていたのです。
雪崩で死ぬかも知れなかったのに、不思議に助かったのはこの一字念仏のお蔭だと思っています。
やはり人はいつでも神仏を信仰して悪事や災難に遭わないように祈るべきなのです。
神仏に帰依する心の中から悪心は出てこないのです。
その邪悪な気持の無かった事が、災難を逃れる一番の事と教えられる思い出ありました。

||今も猶耳に残れり。

■いまも、そうおっしゃった言葉が耳に残っています。

||人智(じんち)を尽してのちはからざる大難にあふは因果のしからしむる処ならんか、人にははかりしりがたし。

■その人が知識と知恵を尽くしても、思いがけない困難にあってしまうのは〔因果〕のなせる事なのかもしれません。
人には推し量りする事の出来ない事なのでしょう。

||人家の雪頽にも家を潰せし事人の死たるなどあまた見聞(みきゝ)したれどもさのみはとてしるさず。

■雪崩で家が潰れて死者が出た事件なども沢山見聞きしましたが、そればかり(不幸事)ばかり書いても詮方なし。
「こんなこともある」ということで(笑)。



雪頽人に災す(北越雪譜)3/32018/02/06 01:06

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○雪頽(なだれ)人に災(わざわひ)す 3/3

○かくて夜も明(あけ)ければ、村の者どもはさら也、聞(きゝ)しほどの人々此家(このいへ)に群(あつま)り来り、此上はとて手に/\木鋤(こすき)を持家内の人々も後(あと)にしたがひてかの老夫がいひつるなだれの処に至りけり。さて雪頽を見るにさのみにはあらぬすこしのなだれなれば、道を塞(ふさぎ)たる事二十間(けん)余り雪の土手をなせり。よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇立(たゝずみ)たるなかに、かの老人よし/\所為(しかた)こそあれとて若き者どもをつれ近き村にいたりて●(にはとり)をかりあつめ、雪頽の上にはなち餌(ゑ)をあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の●羽たゝきして時ならぬに為晨(ときをつくりければ余(ほか)のにはとりもこゝにあつまりて声をあはせけり。こは水中の死骸をもとむる術(じゅつ)なるを雪に用ひしは応変(おうへん)の才也しと、のち/\までも人々いひあへり。老人衆(しゆう)にむかひあるじはかならず此下に在(あ)るべし、いざ掘れほらんとて大勢一度に立かゝりて雪頽を砕きなどして堀けるほどに、大なる穴をなして六七尺もほり入れしが目に見ゆるものさらになし。猶ちからを尽してほりけるに真白(ましろ)なる雪のなかに血を染たる雪にほりあて、すはやとて猶ほり入れしに片腕ちぎれて首なき死骸をほりいだし、やがて腕(かひな)はいでたれども首はいでず、こはいかにとて広く穴にしたるなかをあちこちほりもとめてやう/\首もいでたり。雪中にありしゆゑ面生(おもていけ)るがごとく也。さいぜんよりこゝにありつる妻(つま)子らこれを見るより妻は夫が首を抱へ、子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭(なき)けり、人々もこのあはれさを見て袖(そで)をぬらさぬはなかりけり。かくてもあられねば妻は着たる羽織に夫の首をつゝみてかゝへ、世息(せがれ)は布子(ぬのこ)を脱(ぬぎ)て父の死骸に腕(うで)をそへて泪ながらにつゝみ背負(せおは)んとする時、さいぜん走りたる者ども戸板むしろなど担(かた)げる用意をなしきたり、妻がもちたる首をもなきからにそへてかたげれば、人々前後につきそひ、つま子らは哭(なく)々あとにつきて帰りけるとぞ。此ものがたりは牧之が若かりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。これのみならずなだれに命をうしなひし人猶多かり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。其怖(おそろし)さいはんかたなし。かの死骸の頭(かしら)と腕(かひな)の断離(ちぎれ)たるは、なだれにうたれて磨断(すりきら)れたる也。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.53~58)

 ・ ・ ・

 ○雪頽(なだれ)人に災(わざわひ)す 3/3

||○かくて夜も明(あけ)ければ、村の者どもはさら也、聞(きゝ)しほどの人々此家(このいへ)に群(あつま)り来り、

■さて、夜が明けてから、集落の人たちは勿論の事、その話を聞いた人たちがこの家に大勢集まりました。

||此上はとて手に/\木鋤(こすき)を持家内の人々も後(あと)にしたがひてかの老夫がいひつるなだれの処に至りけり。

■それならば(捜索となるのであれば)と、手に手にコスキ(木鋤)を持って、家内の人たちもその後について、昨晩の旅の老人が言っていた雪崩の場所まで行ったのです。

||さて雪頽を見るにさのみにはあらぬすこしのなだれなれば、道を塞(ふさぎ)たる事二十間(けん)余り雪の土手をなせり。

■その雪崩の場所は、それほど大きい雪崩ではなかったようで、道は雪で二十間(六十メートル)ほどが塞がれて土手のようになっていました。

||よしやこゝに死たりともなだれの下をこゝぞとたづねんよすがもなければ、いかにやせんと人々佇立(たゝずみ)たるなかに、

■仮にこの場所で亡くなったとしても、雪崩の下のどの場所を探せばいいのか、どこから探せばいいのかもわからない。
さてどうしようかと、人びとは手をあぐねています。

||かの老人よし/\所為(しかた)こそあれとて若き者どもをつれ近き村にいたりて●(にはとり)をかりあつめ、雪頽の上にはなち餌(ゑ)をあたえつゝおもふ処へあゆませけるに、一羽の●羽たゝきして時ならぬに為晨(ときをつくり)ければ余(ほか)のにはとりもこゝにあつまりて声をあはせけり。
(●は、“鶏”の鳥の字が“隹”の字)

■昨晩の老翁は「そういうときの方法もあるのだ」と言って、若者を連れ立って近くの村に行きました。
そして家々からニワトリを借り集めました。
そして、ニワトリを雪崩の雪上に放して、餌をばら撒いてニワトリを自由に歩かせると一羽が羽ばたきをして朝でもないのにコケコッコーと鳴いたのです。
すると、他のニワトリもその場所に集まってきて、呼応して鳴くのです。

||こは水中の死骸をもとむる術(じゅつ)なるを雪に用ひしは応変(おうへん)の才也しと、のち/\までも人々いひあへり。

■これは、水中の死体を捜す方法を雪上に応用した機転の知恵だと、人びとは感心して後々まで語られたことでした。

||老人衆(しゆう)にむかひあるじはかならず此下に在(あ)るべし、いざ掘れほらんとて大勢一度に立かゝりて雪頽を砕きなどして堀けるほどに、大なる穴をなして六七尺もほり入れしが目に見ゆるものさらになし。

■老翁は若者たちに向かって「なきがらは絶対にこの下にある」と宣言しました。
さあ掘れ、掘り出せと、大勢で一緒にその場所の雪を砕いたりして掘っていくと、大きな穴になって背丈以上も掘ったのですが、何も見えません。

||猶ちからを尽してほりけるに真白(ましろ)なる雪のなかに血を染たる雪にほりあて、すはやとて猶ほり入れしに片腕ちぎれて首なき死骸をほりいだし、やがて腕(かひな)はいでたれども首はいでず、こはいかにとて広く穴にしたるなかをあちこちほりもとめてやう/\首もいでたり。

■それでも、力の限りと掘っていくと、真っ白な雪の中に血に染んだ雪が出てきました。
ここだ!ともっと深く迄掘ると、片腕が千切れて首の無い死骸があったのです。
少ししてその腕も出てきましたが、首が見つからない。
いったいどういうことかと、穴を広げてその中をあちらこちらを掘っていくと、やっと首も見つかったのです。

||雪中にありしゆゑ面生(おもていけ)るがごとく也。

■冷たい雪の中だったので、その顔はまるで生きているままのようでした。

||さいぜんよりこゝにありつる妻(つま)子らこれを見るより妻は夫が首を抱へ、子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭(なき)けり、人々もこのあはれさを見て袖(そで)をぬらさぬはなかりけり。

■しばらく前からその場所にいた妻と子供たち、それを見たとたんに、妻は夫の首を抱えて、子供は死骸に取りすがって、慟哭しました。
周りの人々も、あまりの気の毒さを見て泣かない人はいなかったのです。

||かくてもあられねば妻は着たる羽織に夫の首をつゝみてかゝへ、世息(せがれ)は布子(ぬのこ)を脱(ぬぎ)て父の死骸に腕(うで)をそへて泪ながらにつゝみ背負(せおは)んとする時、さいぜん走りたる者ども戸板むしろなど担(かた)げる用意をなしきたり、妻がもちたる首をもなきからにそへてかたげれば、人々前後につきそひ、つま子らは哭(なく)々あとにつきて帰りけるとぞ。

■そうしている訳にもいかないので、妻は自分の着ていた羽織で夫の頭部を包んで抱えて、
息子は綿入れの上着を脱いで、父の死骸に腕をそろえて、泣きながら包んで背負おうとしました。
そのときに、しばらく前(発見した時)に走って行った人たちが、戸板や莚を持ってきて担いで運ぶ準備をしていたのです。
そして、妻が持っていた首も一緒にして、担いでいきます。
人たちは前後ろに付き添って、妻と子供たちも泣きながらその後について家まで帰ったそうです。

||此ものがたりは牧之が若かりし時その事にあづかりたる人のかたりしまゝをしるせり。

■この話は、わたし(牧之)が若い頃に、この現場に立ち会った人が語ったことをそのままに記しました。

||これのみならずなだれに命をうしなひし人猶多かり、またなだれに家をおしつぶせし事もありき。其怖(おそろし)さいはんかたなし。

■この例だけで無く、雪崩で命を失った人は多いのです。
また雪崩で家を押し潰されることもあります。
なんとも言いようの無い怖ろしいことです。

||かの死骸の頭(かしら)と腕(かひな)の断離(ちぎれ)たるは、なだれにうたれて磨断(すりきら)れたる也。

■この死骸が、胴体から頭と腕が切断されてしまったのは、雪崩に打たれて擦られて引き千切れてしまったのです。



雪頽人に災す(北越雪譜)2/32018/02/06 01:00

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○雪頽(なだれ)人に災(わざわひ)す 2/3

○こゝに何村(なにむら)といふ所に家内の上下十人あまりの農人(のうにん)あり。主人(あるじ)は五十歳ばかり妻は四十にたらず、世息(せがれ)は二十(はたち)あまり娘は十八と十五也。いづれも孝子(かうし)の聞(きこえ)ありけり。一年(ひとゝせ)二月のはじめ、主人は朝より用ある所へ出行(いでゆき)しが其日も已(すで)に申(さる)の頃なれど帰りきたらず、さのみ間(ひま)をとるべき用にもあらざりければ、家内不審におもひ悴(せがれ)家僕をつれて其家にいたり父が事をたづねしにこゝへはきたらずといふ。しからばこゝならんかしこならんなど家僕とはかりて尋求(たづねもとめ)しかど更に音間(おとづれ)をきかず、日もはや暮なんとすれば空しく家に帰り、しか/\のよし母に語りければ、こは心得ぬ事也とて心あたりの処こゝかしこへ人を走らせて尋(たづね)させけるにその在家(ありか)さらにしれず。其夜四更(しかう)頃にいたれども主人は帰らず。此事近隣に聞えて人々集り種々(さま/”\)に評議して居(ゐ)たるをりしも一老夫来りていふやう、あるじの見え給はぬとや、我心あたりのあるゆゑしらせ申さんとて来れりといふ。すはこゝろあたりときゝて主人の妻大によろこび、子どもらもとも/”\に言語(ことば)をそろへてまづ礼をのべ、その仔細をたづねければ、老夫いふやう、それがし今朝(けさ)西山の嶺半(たふげなかば)にさしかゝらんとせし時、こゝのあるじ行逢(ゆきあひ)、何方(いづかた)へとたづねければ稲倉(いなくら)村へ行(ゆく)とて行過(ゆきすぎ)給ひぬ。我は宿へ帰り足にて遥(はるか)に行過たる頃、例の雪頽の音をきゝてこれかならずかの山ならんと嶺(たふげ)を無事に通りしをよろこびしにつけ、こゝのあるじはふもとを無難に行過給ひしや、万一なだれに逢(あひ)はし給はざりしかと案じつゝ宿へかへりぬ。今に帰り給はぬはもしやなだれにといひて眉を皺(しは)めければ、親子は心あたりときゝてたのみし事も案にたがひて、顔見あはせ泪(なみだ)さしぐむばかり也。老夫はこれを見てそこ/\に立かへりぬ。集居(あつまりゐ)たる若人(わかて)どもこれをきゝて、さらばなだれの処にいたりてたづねみん、炬(たいまつ)こしらへよなど立騒(たちさは)ぎければ、ひとりの老人がいふ、いな/\まづまち候へ、遠くたづねに行(ゆき)し者もいまだかへらず、今にもその人おなじくあるじの帰りたまはんもはかりがたし、雪頽にうたれ給ふやうなる不覚人(ふかくにん)にはあらざるをかの老奴(おやじ)めがいらざることをいひて親子たちの心を苦(くるしめ)たりといふに、親子はこれに励(はげま)されて心慰(こゝろひらけ)、酒肴(しゆかう)をいだして人々にすゝむ。これを見て皆打ゑみつゝ炉辺(ろへん)に座列(ゐならび)て酒酌(くみ)かはし、やゝ時うつりて遠く走(はせ)たる者ども立かへりしに行方(ゆくへ)は猶しれざりけり。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.53~58)

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 ○雪頽(なだれ)人に災(わざわひ)す 2/3

||○こゝに何村(なにむら)といふ所に家内の上下十人あまりの農人(のうにん)あり。主人(あるじ)は五十歳ばかり妻は四十にたらず、世息(せがれ)は二十(はたち)あまり娘は十八と十五也。いづれも孝子(かうし)の聞(きこえ)ありけり。

■某村に十人ほどが住んでいる農家がありました。
主人は五十歳くらいで妻は四十歳にはどかない年です。
息子は二十歳過ぎで娘は十八歳と十五歳の二人。
とても親孝行と評判でした。

||一年(ひとゝせ)二月のはじめ、主人は朝より用ある所へ出行(いでゆき)しが其日も已(すで)に申(さる)の頃なれど帰りきたらず、さのみ間(ひま)をとるべき用にもあらざりければ、家内不審におもひ悴(せがれ)家僕をつれて其家にいたり父が事をたづねしにこゝへはきたらずといふ。

■ある年の二月初め、主人が朝から所用があって出掛けたのですが、既に午後も大分過ぎて(午後四時頃)も帰ってこない。
さほど時間の掛かる用事でもないので、家族は心配する。
息子が使用人を連れて、父が出掛けた筈の家まで行って尋ねてみると、「いや、ここには来られなかった」と言う。

||しからばこゝならんかしこならんなど家僕とはかりて尋求(たづねもとめ)しかど更に音間(おとづれ)をきかず、日もはや暮なんとすれば空しく家に帰り、しか/\のよし母に語りければ、こは心得ぬ事也とて心あたりの処こゝかしこへ人を走らせて尋(たづね)させけるにその在家(ありか)さらにしれず。

■「それならばあそこかも」とあたりをつけた家を使用人と手分けして何軒も尋ねてみたのですが、どの家でも「いや、こっちには来ていない」と。
日も暮れてしまいそうなので、手掛かりもつかめないまま家に帰りました。
その事を母に話すと、母も心当たりのあちらこちらの家に使いを走らせて訪ねさせたのですが、どこにも行った痕跡が無い。

||其夜四更(しかう)頃にいたれども主人は帰らず。

■夜も更けて(午前二時前後)しまっても主人は戻ってこないのです。

||此事近隣に聞えて人々集り種々(さま/”\)に評議して居(ゐ)たるをりしも一老夫来りていふやう、あるじの見え給はぬとや、我心あたりのあるゆゑしらせ申さんとて来れりといふ。

■近所の人も聞きつけてその家に集まって、さてどこに出かけられたかと色々と推理して話をしていました。
そこへ、一人の老人が来ました。
「ご主人が行方不明とか、わたしに心当たりがあるのでその事をお知らせしようと思い、来ました」と言う。

||すはこゝろあたりときゝて主人の妻大によろこび、子どもらもとも/”\に言語(ことば)をそろへてまづ礼をのべ、その仔細をたづねければ、老夫いふやう、それがし今朝(けさ)西山の嶺半(たふげなかば)にさしかゝらんとせし時、こゝのあるじ行逢(ゆきあひ)、何方(いづかた)へとたづねければ稲倉(いなくら)村へ行(ゆく)とて行過(ゆきすぎ)給ひぬ。

■「心当たりがある」と聞いて、さてはと妻は大変喜んで、息子娘達も揃ってお礼の言葉を発しました。
それからその老人の話を聞きました。老人が話す。
老人は今朝、西山の峠の半ばまで行き着くあたりで、ここの主人と行き遭った。
「どこに行かっさる」「稲倉村までだ」と挨拶をしてすれ違ったと話しました。

||我は宿へ帰り足にて遥(はるか)に行過たる頃、例の雪頽の音をきゝてこれかならずかの山ならんと嶺(たふげ)を無事に通りしをよろこびしにつけ、こゝのあるじはふもとを無難に行過給ひしや、万一なだれに逢(あひ)はし給はざりしかと案じつゝ宿へかへりぬ。

■〈老人〉「わたしは宿屋への帰り道でした。
大分行き過ぎた頃に遠くに雪崩の音を聞いたのです。
『これは、あそこの山に違いない、通り過ぎてからでよかった』と喜んだのですが、『さっき会ったあの人は麓を大事無く通れただろうか、もしや雪崩に遭ったら』と心配しながら宿屋に帰りました」。

||今に帰り給はぬはもしやなだれにといひて眉を皺(しは)めければ、親子は心あたりときゝてたのみし事も案にたがひて、顔見あはせ泪(なみだ)さしぐむばかり也。

■〈老人〉「今の時間になってもお帰りにならないのはもしやその雪崩に、、」
と眉間にしわ。親子は、心当たりと聞いて喜んだのですが、予想外の話に、顔を見合わせて涙ぐんでしまいました。

||老夫はこれを見てそこ/\に立かへりぬ。

■老人は、その場に居た堪られなくなり、そこそこに帰ってしまいました。

||集居(あつまりゐ)たる若人(わかて)どもこれをきゝて、さらばなだれの処にいたりてたづねみん、炬(たいまつ)こしらへよなど立騒(たちさは)ぎければ、ひとりの老人がいふ、

■集まっていた中の若者たちはこれを聞いて、
〈若者〉「それなら雪崩の場所に行って捜索してみよう。まずは、松明の準備だ!」
と騒ぎ出しはじめました。これを聞いていた一人の老翁が諌める。

||いな/\まづまち候へ、遠くたづねに行(ゆき)し者もいまだかへらず、今にもその人おなじくあるじの帰りたまはんもはかりがたし、雪頽にうたれ給ふやうなる不覚人(ふかくにん)にはあらざるをかの老奴(おやじ)めがいらざることをいひて親子たちの心を苦(くるしめ)たりといふに、

■〈老翁〉「いやいや、先ず落着け。遠くに尋ねに行った者もまだ戻ってきていないのだ。
それらの人たちは今でも、主人が帰られたかどうかの判断もついていないのだぞ。
ここの主人は決して雪崩になど遭うような判断力の無い御仁ではない。
それをあの老いぼれ旅人の野郎が要らぬことを言って一家の気持を逆立てしやがって」。

||親子はこれに励(はげま)されて心慰(こゝろひらけ)、酒肴(しゆかう)をいだして人々にすゝむ。

■親子はこの老翁の言葉を聞いて、気持が落着き、酒肴の準備をして集まった人たちにお礼をしました。

||これを見て皆打ゑみつゝ炉辺(ろへん)に座列(ゐならび)て酒酌(くみ)かはし、やゝ時うつりて遠く走(はせ)たる者ども立かへりしに行方(ゆくへ)は猶しれざりけり。

■みんなも、穏やかな気持になって囲炉裏端に座り込んで、酒の席となりました。
しばらくして、遠くまで使いに行った人たちも帰って来ましたが、主人の行方は判らないままでした。



雪頽人に災す(北越雪譜)1/32018/02/06 00:49

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○雪頽(なだれ)人に災(わざわひ)す 1/3

 我住(わがすむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内にて雪頽の為に非命の死をなしたる事、其村の人のはなしをこゝに記(しる)す。しかれども人の不祥なれば人名を詳(つまびらか)にせず。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.53~58)

■ わたし(牧之)の住んでいる魚沼郡で、雪崩で悲惨な死亡事故が起きたとき、その村の人に聞いた話をここに載せます。
しかし人の不幸な出来事なので、名前などは明記しないでおくことにします。



雪頽(北越雪譜)2/22018/02/04 19:52

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○雪頽(なだれ)2/2

 或人問曰(とふてしはく)、雪の形六出(むつかど)なるは前に弁ありて詳(つまびらか)也。雪頽は雪の塊(かたまり)ならん、砕(くだけ)たる形雪の六出なる本形をうしなひて方形(かどだつ)はいかん、答(こたへ)て曰、地気天に変格して雪となるゆゑ、天の円(まるき)と地の方(かく)なるを併合(あはせ)て六出をなす。六出(りくしゆつ)は円形(まろきかたち)の裏也。雪天陽を離(はなれ)て降下(ふりくだ)り、地に帰(かへれ)ば天陽(やう)の円(まろ)き象(かたどり)うせて地陰(いん)の方(かく)なる本形に象(かたど)る、ゆゑに雪頽は千も万も圭角(かどだつ)也。このなだれ解(とけ)るはじめは角々(かど/\)円(まろ)くなる、これ陽火(やうくわ)の日にてらさるゝゆゑ天の円(まろき)による也。陰中に陽を包み陽中に陰を抱(いだく)は天地定理中(ぢやうりちゆう)の定格(ぢやうかく)也。老子経第四十二章に曰(いはく)、万物負レ陰而抱レ陽(ばんぶついんをおびてやうをいだく)冲気以為レ和(ちゆうきををもつてくわをなす)といへり。此理を以てする時は、お内儀さまいつもお内儀さまでは陰中に陽を抱(いだか)ずして天理に叶(かなは)ず、をり/\は夫に代りて理屈をいはざれば家内治(おさまら)ず、さればとて理屈に過(すぎ)牝鳥(めんどり)旦(とき)をつくればこれも又家内の陰陽前後して天理に違(たが)ふゆゑ家の亡(ほろぶ)るもと也。万物の天理誣(しふ)べからざる事かくのごとしといひければ、問客(とひしひと)唯々(いゝ)として去りぬ。雪頽悉(こと/”\)く方形(かどだつ)のみにもあらざれども十にして七八は方形をうしなはず。故(ゆゑ)に此説を下(くだ)せり。雪頽の図(づ)多く方形に従ふものは、其七八をとりて模様(もやう)を為すのみ。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.49~50)

 ・ ・ ・

 ○雪頽(なだれ)2/2

|| 或人問曰(とふてしはく)、雪の形六出(むつかど)なるは前に弁ありて詳(つまびらか)也。雪頽は雪の塊(かたまり)ならん、砕(くだけ)たる形雪の六出なる本形をうしなひて方形(かどだつ)はいかん、答(こたへ)て曰、地気天に変格して雪となるゆゑ、天の円(まるき)と地の方(かく)なるを併合(あはせ)て六出をなす。

■ ある人との問答。

〈或人〉「雪の形が六つ角だということは、前の話で判りましたが、雪崩は雪の塊ですよね。
砕けた形が六角にならずに四角になってしまうのはどういうことでしょうか」。

〈京山〉「それはじゃ、地気が天に昇って変格して雪になるので、天の円(まる)と地の方形が和合したから六角なのじゃ。『○雪の形』の条(くだり)に書いたのがそのことじゃ。〔愚按るに円は天の正象、方は地の実位也〕ということとな」。

||六出(りくしゆつ)は円形(まろきかたち)の裏也。

■六角に突出するのは、円の形の裏なのです。

※京山先生のはなしは続く・・・※

||雪天陽を離(はなれ)て降下(ふりくだ)り、地に帰(かへれ)ば天陽(やう)の円(まろ)き象(かたどり)うせて地陰(いん)の方(かく)なる本形に象(かたど)る、ゆゑに雪頽は千も万も圭角(かどだつ)也。

■雪が天の領域から離れて降下して、地に戻れば天(陽)の正象の形(円)が失せて、地(陰)の実位の形(方)に変わるのです。
だから、雪崩は至るところが角立つのです。

※京山先生、よく判りませーん(笑)。

||このなだれ解(とけ)るはじめは角々(かど/\)円(まろ)くなる、これ陽火(やうくわ)の日にてらさるゝゆゑ天の円(まろき)による也。

■この雪崩が溶け始めると、角かどは再び丸くなるのです。
これは、陽の火である日光に照らされるから、丸くなるという理屈なのです。

||陰中に陽を包み陽中に陰を抱(いだく)は天地定理中(ぢやうりちゆう)の定格(ぢやうかく)也。

■陰中に陽在り、陽中に陰在り、これは天と地の定理ともいうべき本来の仕組みなのです。
※この事々も、『○雪の形』の条に書いた気がする、、、(京山の独言、、、こら!)

||老子経第四十二章に曰(いはく)、万物負レ陰而抱レ陽(ばんぶついんをおびてやうをいだく)冲気以為レ和(ちゆうきををもつてくわをなす)といへり。

■〈京山〉「えーと、老子の「道徳経」は第四十二章にこう書かれている」。
万物負陰而抱陽〕バンブツ フーイン ジ ホーヨー
冲気以為和〕 チューキ イーイー ワー(※嘘ですから、どう読むのかわかりません(笑))

 万物は陰を負い、しかして、陽を抱くのです
 それがチュウする事によって、和というものが顕れる、とな。
 嗚呼、それが虚無ぢゃ。

 ※そんな事は書いてませんが、こういう↓ことですかね(^^;

||此理を以てする時は、お内儀さまいつもお内儀さまでは陰中に陽を抱(いだか)ずして天理に叶(かなは)ず、をり/\は夫に代りて理屈をいはざれば家内治(おさまら)ず、さればとて理屈に過(すぎ)牝鳥(めんどり)旦(とき)をつくればこれも又家内の陰陽前後して天理に違(たが)ふゆゑ家の亡(ほろぶ)るもと也。

■〈京山〉「この理(ことわり)を敷衍するとじゃな、

おかみさんはいつもお内儀様のままでは、陰中に陽を抱く事が無いので天理に叶うておらぬのじゃ。時々は、、、えーと、折にふれてはだな、夫に代わって小言のひとつも言わないと、家内の安寧は保てないのだな。

だからといって、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃと喋りすぎると、これはだな、〔めんどり(雌鳥)うたえば家亡ぶ〕ということばがあるのじゃ。これも過ぎると家内の陰陽が逆になるので、天の理に叶わないのだな」。

※〔人の体男は陽なるゆゑ九出し女は十出す〕と、女が陰、男が陽と、やはり『○雪の形』でしっかりと前振りして書いているのです(笑)。

||万物の天理誣(しふ)べからざる事かくのごとしといひければ、問客(とひしひと)唯々(いゝ)として去りぬ。

■〈京山〉「万物は天の理を違えてはならぬ、というのはこういうことなのじゃ」

と、講釈をしたら、その御仁は「へいへい、ありがたいお説でございますだ」と逃げて行ったわい。
アハハ。かんらかんら。

※悪乗り、いやいや、京山がそのように書いていると思えて仕方が無い(笑)。

||雪頽悉(こと/”\)く方形(かどだつ)のみにもあらざれども十にして七八は方形をうしなはず。故(ゆゑ)に此説を下(くだ)せり。

■雪崩は全ての形が角立つわけでは無いのですが、七八割が方形を保っている。
それなので、このように説明してみました。

||雪頽の図(づ)多く方形に従ふものは、其七八をとりて模様(もやう)を為すのみ。

■雪崩の絵を矩形の雪を多用して描いたのは、その為なのです。
(※これは、京水(絵師:京山の息子)の絵図の説明(言い訳)なのかも。
実際にはこんな物ではないという・・・)。



雪頽(北越雪譜)1/22018/02/04 19:46

北越雪譜初編 巻之中
   越後湯沢 鈴木 牧之 編撰
   江  戸 京山人百樹 刪定

 ○雪頽(なだれ)1/2

 山より雪の崩頽(くづれおつる)を里言に〔なだれ〕といふ、又〔なで〕ともいふ。按(あんず)になだれは撫下(なぜおり)る也。〔る〕を〔れ〕といふは活用(はたらかする)ことばなり、山にもいふ也。こゝには雪頽(ゆきくづる)の字を借(かり)て用ふ。字書に頽(たい)は暴風ともあればよく叶へるにや。さて雪頽(なだれ)は雪吹(ふゞき)に双(ならべ)て雪国の難儀とす。高山(たかやま)の雪は里よりも深く凍るも又里よりは甚(はなはだ)し。我国東南の山々里にちかきも雪一丈四五尺なるは浅(あさき)しとす。此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月のころにいたれば陽気地中より蒸(むし)て解(とけ)んとする時地
気と天気との為に破(われ)て響(ひゞき)をなす。一片破て片々(へん/\)破る、其ひゞき大木を折(をる)がごとし。これ雪頽(なだれ)んとするの萌(きざし)也。山の地勢と日の照(てら)すとによりて、なだるゝ処(ところ)となだれざる処あり。なだるゝはかならず二月にあり。里人(さとひと)はその時をしり、処をしり、萌(きざし)を知るゆゑに、なだれのために撃死(うたれし)するもの稀(まれ)也。しかれども天の気候不意にして一定(ぢやう)ならざれば、雪頽(なだれ)の下に身を粉(こ)に砕(くだ
く)もあり。雪頽の形勢(ありさま)いかんとなれば、なだれんとする雪の凍(こほり)その大なるは十間以上小なるも九尺五尺にあまる、大小数百千悉(こと/”\)く方(しかく)をなして削りたてたるごとく かならず方(かく)をなす事下に弁(べん)ず なるもの幾千丈の山の上より一度に崩頽(くづれおつ)る、その響百千の雷(いかづち)をなし、大木を折、大石を倒す。此時はかならず暴風(はやて)力をそへて粉に砕(くだき)たる沙礫(こじやり)のごとき雪を飛(とば)せ、白日も暗夜の如くその慄(おそろ)しき事筆紙(ひつし)に尽しがたし。此雪頽に命を捨(おと)しし人、命を拾(ひろひ)し人、我が見聞(みきゝしたるを次の巻(まき))に記(しる)して暖国の人の話柄(はなしのたね)とす。
「校註 北越雪譜」野島出版より(P.47~50)

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 ○雪頽(なだれ)1/2

|| 山より雪の崩頽(くづれおつる)を里言に〔なだれ〕といふ、又〔なで〕ともいふ。按(あんず)になだれは撫下(なぜおり)る也。〔る〕を〔れ〕といふは活用(はたらかする)ことばなり、山にもいふ也。こゝには雪頽(ゆきくづる)の字を借(かり)て用ふ。字書に頽(たい)は暴風ともあればよく叶へるにや。

■ 山から雪が崩れ落ちる事を里言葉で【なだれ】といいます。【なで】ともいいます。
何でかと考えてみろと、なだれは〔撫下(なぜおり)る〕ではないかと思う。
「る」が「れ」となるのは語の活用によるのです。
ここでは、〔雪頽(ゆきくづる)〕という文字で記すことにします。
辞書を引けば、〔頽〕の字には爆風の意味もあるので意味も通じるでしょう。

※原文の雪頽は、この訳文ではなるべく雪崩と表記することにします(掲載子)。

||さて雪頽(なだれ)は雪吹(ふゞき)に双(ならべ)て雪国の難儀とす。高山(たかやま)の雪は里よりも深く凍るも又里よりは甚(はなはだ)し。

■雪崩は吹雪きと同じく雪国では難儀な事になります。
高山の雪は平地よりも深い雪となり、氷雪も平地とは較べものにならないほどです。

||我国東南の山々里にちかきも雪一丈四五尺なるは浅(あさき)しとす。此雪こほりて岩のごとくなるもの、二月のころにいたれば陽気地中より蒸(むし)て解(とけ)んとする時地気と天気との為に破(われ)て響(ひゞき)をなす。一片破て片々(へん/\)破る、其ひゞき大木を折(をる)がごとし。これ雪頽(なだれ)んとするの萌(きざし)也。

■越後山脈の裾野、平地に近い場所でも五メートル程度は浅いといってもよいほどです。
その雪が氷結して岩のようになるのです。
二月頃には、地中の陽気が出始めるので雪下は蒸されて解けだしてきます、
そのときに地の気と天の気がぶつかるので雪が音をたてて裂けるのです。
一箇所で裂けると次々に裂けてきます。
そのときの音は大木が折れるような音がします、この響きが雪崩の予兆です。

||山の地勢と日の照(てら)すとによりて、なだるゝ処(ところ)となだれざる処あり。なだるゝはかならず二月にあり。

■斜面の地形と日照の具合によって、雪崩が発生する所と発生しない場所があります。
雪崩る場所では必ず二月に発生します。

||里人(さとひと)はその時をしり、処をしり、萌(きざし)を知るゆゑに、なだれのために撃死(うたれし)するもの稀(まれ)也。しかれども天の気候不意にして一定(ぢやう)ならざれば、雪頽(なだれ)の下に身を粉(こ)に砕(くだく)もあり。

■その地に住む里人はその時節と場所を知っていて、予兆の響きも知っているので、雪崩に遭って死ぬ事はめったにはありません。
しかし、雪国の天候は急変する事があるので、雪崩にぶつかる事もあるのです。

||雪頽の形勢(ありさま)いかんとなれば、なだれんとする雪の凍(こほり)その大なるは十間以上小なるも九尺五尺にあまる、

■雪崩の規模といったら、崩れる凍った雪は、大きいものは十間(18メートル)以上、中小規模でも3メートル、1.5メートル程の塊となります。

||大小数百千悉(こと/”\)く方(しかく)をなして削りたてたるごとく-かならず方(かく)をなす事下に弁(べん)ず-なるもの幾千丈の山の上より一度に崩頽(くづれおつ)る、その響百千の雷(いかづち)をなし、大木を折、大石を倒す。

■数百千にもなる大小の塊が全て四角になって、高山の山頂から一度に削れ滑り落ちるのです。
そのさまは、無数の雷鳴とともに、大木をなぎ倒して、大きな山石をも転がすのです。
どうして、方(かく)になるのかは、この後で書きます。

||此時はかならず暴風(はやて)力をそへて粉に砕(くだき)たる沙礫(こじやり)のごとき雪を飛(とば)せ、白日も暗夜の如くその慄(おそろ)しき事筆紙(ひつし)に尽しがたし。

■このときには、暴風も発生して砕かれた氷雪は石礫のように雪を飛ばして昼間でも暗闇になってしまうのです。
その恐ろしさは表現のしようも無いほどです。

||此雪頽に命を捨(おと)しし人、命を拾(ひろひ)し人、我が見聞(みきゝしたるを次の巻(まき))に記(しる)して暖国の人の話柄(はなしのたね)とす。

■こういう雪崩に落命した人や危うく助かった人など、わたし(牧之)が見聞した事々については、
次巻に書く事にします。この雪国の恐ろしさをトカイの人への話の種としましょう。

※次巻(北越雪譜初編巻之中)予告で引っぱる(笑)。

まだまだ雪について書く事があったのだ。しかし、巻之上は、ぜひとも鈴木牧之を塩沢に訪ねるまでには、初稿を仕上げねばならない。
さて、どうするか。そして、巻之上の丁をあわせる(頁数を合わせる)ためにも、京山は書き出したのだ、それがまた、筆のいきおいは、止まらなくなってしまう。
(あくまで、本掲載子の想像(与太ですから(笑)))。



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