別冊

150921_奥会津にて・朝散歩42015/10/11 10:50

2015年9月21日、朝。
帰り道。

150921_奥会津にて・朝散歩4









150921_奥会津にて・夕餉時2015/10/12 12:28


150921_奥会津にて・夕餉時
集落の女性の輪番担当の「火の用心」




嘉永四年に亡くなった、安則氏の墓の文字は普通のお墓などでは見られない書体である。
この石碑は嘉永六年とある。
読めない、後で「白雲山」と聞いた。
安則氏の墓の文字とこの石碑の文字は同一人物ではないだろうかと、ふと思ったのでした。



田の口沢の奥から白煙。
まさか、と軽トラで通りかかったHさんに尋ねてみた。
古くなった手柴を畑の中で燃やしたそうだ。





150922_奥会津にて・只見町探訪2015/10/18 22:35

2015年9月22日、博昭さんが隣町(只見町)に調査行をされるということで同行させていただいた。

150922_奥会津にて・只見町探訪
昭和村大芦中組の神社参道階段下。


昭和村大芦地区、山の神さま。















ここから目的地近く。








ごみ収集場所(施設)なのです。










耕地整理


白雲山


日光





歌舞伎

弘化
天保








幽遠山妙雲寺







すたすた





正徳五年
正徳!


五十嵐小六氏?




さっさと





寛延



嘉永七年
嘉永!



干し物を掛ける釘と桟がある。






女性らしい像です、と思った、が当たり前だ!
八体の観音様である。



気になって、車内窓前方上方を時々写していた。
「シラサギですね」とさりげなく説明してくださった。



富士神社。

ここにも白雲山。

蒲の穂の田んぼと、雪崩防止堰?





坂を上る墓の入口。


教室の机のように。


水引です。


赤苧(あかそ)です。







これは何ですか。
芋のムカゴでも、ユリのムカゴでもない。

・・・つづく・・・

150922_奥会津にて・只見町探訪(2)2015/10/25 23:44


2015年9月22日、博昭さんが隣町(只見町)に調査行をされるということで同行させていただいた。

一度にアップできる写真の枚数に制限があるので、その都合だけで2回に分けてしまいました。


150922_奥会津にて・只見町探訪(2)
集合墓地から離れた一墓。
大抵の集落(坪とかマケ)の墓地は一箇所にあるのが普通。
時たま、こういうお墓もある。
ただ、そういう墓は見守る人はいなくなるので、放置されてしまうかもしれない。
それに近い墓石が、小中津川の畑にも3基あった。
このような墓が、大芦集落の入口の坂の下に3軒並ぶ家の裏の斜面にもある。



梁取にて。




















※2015年9月22日のことですが、リアルで投稿している本日は、2015年10月25日です。
また、一ヶ月ほど遅れてしまいました。全く申し訳ないことです。

 ヒロアキさんが「隣町に調査に」とのことで、同行のお誘いをいただきました。
車に同乗して、小中津川から大芦、新鳥居峠を越えて、伊南川沿いに只見町、塩ノ岐(しおのまた)という場所まで。
同氏のこの調査行の主目的は、塩ノ岐のさるお墓を現地で実見するということでした。

と書いて、そのあとにとっちらかって、いまだにそのままなのです。

150922_奥会津にて・「大芦家」2015/10/29 01:20


150922_奥会津にて・「大芦家」







150922_奥会津にて・「大芦家」
子供夫婦とその子達(はい、孫です!)も来たので、車で一緒に大芦に行く。
帰りにからむし織の里に寄る。




150922_奥会津にて・「からむし工芸博物館」2015/10/29 01:30


150922_奥会津にて・「からむし工芸博物館」




春から継続しているテーマの展示だった。
文字として残っている「からむし」関係の書誌の展示のパート2。

「六百年前」からとずっと流布されている、この地(現昭和村)での口碑は事実なりや、という事も再び見直そうという真摯なテーマも扱っている。







羅葡(大根)」とある。
明治14年に奥会津下中津川村の戸長が福島県令に提出した文書の下書きの写しを活字化した資料。
おそらく元の手書きには、ふりがなとカッコ内文字“大根”はなかったのではないかと思われる。

大根のことを、太古の日本列島の人々は「おおね」といった。らしい。
ある時代に大陸から文字が流入された。
その頃の日本列島の人々は、詞(ことば)にはとても敏感だったのと、大陸から移入された文字をせっせと、もとからの詞(大和言葉と言っていいのかしらん)に文字化した。
そして「おほね」を漢字で表現して「大根」としたのでした。
つまり大根というのは、漢字を使用しているのですが、日本固有の表現なのですね。
ところがそれを再び移入元もどきの発声をすると、訛ってダイコンになった。
それがまだ文字を表現するよりも音声による伝達手法の方が利便性があったので、伝達される変遷で、ダイコ、とか、デーコとかになったのです。
これでは、公式呼称にならなくなった。
それで、日本国内の公式文書を書ける人は、元々の大陸で漢字で表現していたムツカシイ字を使用したのです。
それが、「羅葡(らふく、とか、らいふく)」という正式単語(と呼称)らしいのです。

その、「羅葡」という文字を、わたし(掲載子)はつい数ヶ月前にも見つけたのでした。
その本というのが、元禄時代に刊行された『農業全書』という本の復刻本です。
足掛け2年、抜書き作業中です(^^;
この図で「羅葡」の漢字にふってあるルビは「だいこん」と読める。

150922_奥会津にて・「織姫交流館」2015/10/29 01:42


150922_奥会津にて・「織姫交流館」

「織姫交流館」店内にて











小鍋ひとつ分。

150922_奥会津にて・月光さしん2015/10/29 01:47


150922_奥会津にて・月光さしん

散歩途中で暗くなった。

150923_奥会津離郷の日2015/10/29 01:49

150923_奥会津離郷の日
本日は今年三月に亡くなった昭和館のばあちゃん(義母)、束原ヤマトの「初の秋彼岸」。

150923_奥会津離郷の日



倉(くら)の中にあった。
手前の白いものではなくて、茶色の木製の道具。
以前に見かけてなんだろうかと思った。
使い込まれた痕跡がある。
田んぼで使うらしい、とまでは想像していた。
何気に写真を撮ったので、全体も写さなかった。

風呂の湯をかき回す道具、ではない。とは想像していた。
昭和館は一応旅館なので、広い風呂(三畳ほどはあるだろうか)があるのです。
その様な風呂の湯をかき混ぜる道具は売っていないので、義弟が、材料(板と棒)を途中で調達してきて風呂のかき混ぜ棒を作っていた。

ちょうど、野尻の庄一さん夫妻(庄一あんにゃと信子姉)がいらっしゃった。
それで、その話題になったので、この写真に写っている道具の話をしたら、庄一さんは「それは『えんほり棒』だな」とおっしゃったのでした。えんぼり棒に近い発声かもしれない。
「えんほり棒」とは、田植え前の田んぼを耕して、水を入れて代掻きをする、その時に、水の上に緩(ゆる)く出ている土の塊(泥ですね)を均(なら)す道具だとおっしゃるのです。
エンホリがどういう字かまでは確認しなかった。漢字で表現すると、縁彫(ふちを削る)だろうか(妄想です)。

「あれは、軽くて、楽(便利)だったわな」
水を張った田んぼの上を、丁(T)字型の道具を引いて均すのです。

今度、行った時には、きちんと写す予定。それまでにこの道具が廃棄処分されることはありえないので(笑)。




車窓



こないだの豪雨ではあの辺りまで水が。

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