別冊

柄振(えぶり えんぶり)のこと2015/10/31 00:40

【柄振(えぶり えんぶり)のこと】

柄振(えぶり えんぶり)のこと

2014年5月4日にも写していた、「エンブリ」の写真です。
この道具の用途が全然わからないので、風呂の湯のかき混ぜ棒かしらん、などと与太を書いていました。

ちょっと加工して、facebookに載せた。


とっかかりで、「えんふり」と聞き違えた(まだ未確認ですが)ために、手持ちの資料(パソコンに入れてあるメモその他)にもあたらなかった。
が、わたしは既に(以前に)このエンブリという単語を目にしていたのでした。

この写真と、「エンブリ」ではないか?と指摘されても、自分のメモを引いてみようとは全く想起できなかったことを吐露しておきます。
が、メモ(記録)した時点では、我ながら再読に応えられる箇所をメモしているのではないか、と自画自賛したいところ(^^;
以下に、それをコピペ(転載)しておきます。
(facebook掲載と応答コメントは後で採取掲載予定(笑))

【柄振(えぶり えんぶり)のこと】
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 苗代は秋の取り入れが終わってから耕して準備しておいた。苗代にする田圃は毎年決まっていて、家の近くで便利の良い田圃を使用した。振り付けといって下肥を春先の堅雪を利用して運び、田圃に撒いておき、また、雪が早く消えるようにと、苗代の上に土をかけておいた。
 肥料が早く効いて苗の根張りがあまり深くならず、苗が取りやすいように、苗代の田はあまり深く耕さないように手で耕した。まず馬で代(しろ)をかき、エンブリでならした。その後、みんなで横に並び手で(前年の)稲株を中に入れて後ろにさがりながら、自分の足跡を消した。さらにその後、十二尺くらいのならし棒で丁寧に平らにした。

カンケブログ(菅家博昭氏)が掲載した、『北会津村史 第1巻 民俗編』掲載の抜書き 2009年10月21日
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 遺跡から出土する農具の体系

 縄文時代晩期 モロテグワ(諸手鍬)、クワ(鍬)、エブリ(柄振 ●)、タテギネ(竪杵)。(●:木ヘンに八)
 弥生時代前期 あらたにスキ(鋤)、マルグワ(丸鍬)、ヒラグワ(平鍬)、ミツマタグワ(三叉鍬)、ヒログワ(広鍬)、およびツチ(槌)、ウス(臼)がくわわる。
 弥生時代中期 さらにマタスキ(叉鋤)、マドグワ(窓鍬)、フタマタグワ(二叉鍬)、タゲタ(田下駄)、キホウチョウ(木包丁)、ツチノコ(槌の子=子槌)、キヌタ(砧)があらわれる。
 つまり弥生時代の中期には、人力作業ではあるが、耕耘(こううん)具・田植え具・収穫具・調整具など、ほぼすべての水田農具が顔をそろえ、水田稲作体系が整ったことを示している。これらの木製農具は材料が鉄に変わっているが、その形状の基本は近代の水田農具と同じである。水田稲作技術は、わが国へ伝えられたとき、すでに完成域に達していたのである。
 なお、木製農具の材料樹種をみると、弥生時代中期まではカシ・クスノキなど一次林樹木が多く、弥生時代後期から古墳時代にかけてはコナラ・クヌギなど二次林樹木が増える傾向が認められる。水田開発がすすむ中で、平野の一次林が破壊されて二次林化するようすを反映しているのであろう。
(《2 弥生時代の水田稲作》P.67~68)

『稲作の起源を探る』藤原宏志・岩波新書354 より
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 水が流れてくると百姓たちは砂を流れに落しいれつつその砂を下流に流していく。石の多い山では石はねといって石をはねる作業がある。のこりの砂や砂鉄は大池にたまる。これをまた流して中池へ送る。さらに乙池へ送っていく。その間に普通の砂は流れ去って鉄分と砂の一部がのこる。それを船場へ持っていく。船場へはすんだ水を流し、鉄と砂のまじったものを船場に入れ、エブリで砂を押しあげるようにすると、普通の砂は流れについて去る。粉鉄は重いので船の中にたまる。上洗いというのは粉鉄が八分に、砂が二分ぐらいまじっているもので、それ以下だと粉鉄が七分、六分という場合もあるが、砂が多ければ鉄の値段はやすくなる。また、船場から下に一の落ち、二の落ち、三の落ちという堰をつくって砂をとめ、その中からさらに粉鉄をとる。これを落小鉄(おちこがね)といっている。目方が軽くて値も安い。また川に落ちた砂をせきとめて大池へ運んで船場へ流して、そこで洗い、粉鉄をとることがある。川落粉鉄(かわおちこがね)といっている。
(《十二 中国山中の鉄山労働者》P.143)

『山に生きる人びと』宮本常一・河出書房新社 より
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 そのあと、若干の儀式があって、御田植祭を、鍬入れ行事・畝切り行事・田打ち行事・畦ぬり行事・馬杷(まぐわ)行事・柄振り行事・種子蒔き行事・飯戴汁戴(いいかぐめしるかぐめ)(はらみ女が頭に飯汁を載せて出る)と一連の行事が続く。御田植祭が終わると、神輿が斎庭(さにわ)から下宮に遷幸する神幸式があり、山伏仲間の先達職をきめる宣度祭が始まり、早具足・練相撲などの競技が先山伏によって行われる。これが終わって、長床衆が退去すると、法螺の合図で柱松倒しが行われる。
(《神と仏の間 三 柱松と修験道》P.173)

『神と仏の間』和歌森太郎・講談社学術文庫 より
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