別冊
立派な像仕立ての石柱も並んでいる。
この地に元々あったかどうかはわからない。
ある時代の出来事により、移設されたのかもしれない。
何代か襲名されたらしいが、善六氏の名前も見つけた。
と、その隣の束原家の墓の後ろに整列せられた墓石の側面(正面向かって右)に「安則」の文字を見つけたのでした。
この文字(草書)は、お墓ではめったに見ない。
ここは、ほとんど小中津川の束原一族の墓地なので、火葬になってから造られはじめた(想像)、
それぞれの家が持っている○○家の墓という区画と建造物が出来て、それ以前のお墓はその後ろとか隣に移動しているらしい。
つまり、この墓地には塚原家の墓と書かれた区画だらけである。
同じ束原家ではあるが、家毎に位置が違う。
他の墓参の方もいらっしゃるので、なかなか隣の区画に入り込んで、隣の区画の家の方へのことわり(挨拶)無しに無遠慮にじろじろと眺め回すのもはばかれる気がしたのでした。
読めないが、恐らく五七五(または31文字)の歌なのだ。
そして、正面側に回り込んで、その墓石を見ると、「俳諧歌●●●●・」と、これまた、独特な字体で彫られているではありませんか!
間違いない。
カンケブログ(菅家博昭さん)ではつい先日(7月)に、以下のような文章を発表されていた。
■ 1973年(昭和48年)に出版された『昭和村の歴史』の117ページに、
近世の人物として、束原安則(つかはら・やすのり)が紹介されています。
束原安則、小中津川村の人。
天明七年(1787)1月1日生まれ、嘉永四年(1851)1月28日没。
65歳。
円治、峯光、蓬莱亭(ほうらいてい)、善右衛門(六代目)という。
この文章で説明されている、実物にでっかあせたのです。
後日(8月15日か16日)のことになるが、この墓の区画の家のタカコさん(ヒロジさんの奥様)と立ち話が出来たので、このこと(安則さんのこと)を話してみた。
「そうだ墓があったのか、そういえば、『蓬莱亭』というのを聞いたことがある」とおっしゃるのです。
このとき、わたしは『安則さん』と『俳諧師』という言葉は発したが、タカコさんの方から『蓬莱亭』という言葉が出てきたのでした。
善右衛門とあるので、同じ“善”の字の善六氏のことなども聞いてみた。
「あっかもしんねー(あるかも知れない)が、分かれた(分家した)ようなことも聞いたので、さてどっちだったか」とのこと。
経緯をきちんと尋ねることのできる知識が、わたしの方に不足しているのでこれ以上の質問は出来なかった。
が、カンケブログ(引用元は『昭和村の歴史』)に、
農業のかたわら、からむし、塩などを商ったが、狂歌師として知られる。
とある。
「塩家」と呼ばれている家がある。その家は、ヒロジさんの家ではない。
この小さな集落で、塩を商売にする家が二軒も三軒もはないだろうと思い至って、タカコさんのいう分家(新宅ですね)ということが、なんとなく諒解できたのでした。
20150923【訂正】
本文中の、以下は間違い。訂正しておきます。
×塚原 → 束原
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本文中の、以下は間違い。訂正しておきます。
×塚原 → 束原