110904_マークⅠ ― 2011/09/08 01:00
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110906_十津川村 ― 2011/09/08 23:55
十津川村の来歴は、既にテレビでも放映していた。
が、その『十津川村』のことを2年前に、「民俗学の旅」宮本常一・講談社学術文庫で読んだ。
その本で読んで、なんとなく気になった頁に折り目をつけておいた。
後で、その頁の文章を抜書きをして、掲載した。
〔[抜書き]「民俗学の旅」〕
http://www.kkjin.co.jp/boso010_090809.htm
新十津川は奈良県十津川から分村してきて開拓定住したものである。十津川は昭和十四年東京へ出るまえに歩いてみた。十津川は天辻峠の南にあり、十津川の流域をその村域とする東西二八キロ、南北五二キロ、村としては日本でもっとも大きかったが、山また山のかさなりあうところで、山腹の緩傾斜を拓いて焼畑を作り杣(そま)仕事をおこなって生活をたててきた。ところが明治二十二年未曾有の大豪雨にみまわれ、それが山をくずして湖をつくり、その湖の決潰によって大洪水となり、
流失家屋 二六七(戸)
潰家 二五九
半潰 一八四
死亡 男 九〇(人)
女 七八
負傷 二〇
の被害をうけた。そして被災者は三千余人の多きにのぼった。これらの被災者は地元ではとうてい立ち直る見込みが立たないので北海道移住を計画し、六百戸、二千六百九十一人が移住することになった。その第一回移民は十月十八日に郷里を出発し、第三回移民が小樽についたのは十一月六日、移民全員が空知太屯田兵舎についたのは十一月十八日であったが、石狩平野はすでに雪に掩われていた。雪の中で一冬をすごさねばならぬことは、食うもの着るものの不足する被災者にとっては大きな苦痛であった。
(《11 戦時中の食料対策》P.138~P.139)
「民俗学の旅」宮本常一・講談社学術文庫 より
この村が、再び被害を受けたのだ。
何故この文章を抜書きしたのだろうかと思い出してみた。
それは、奥会津のふるさとの村を思ったからである。
現在のそのS村は人口1500人ほどであるが、以前のS村の人口規模とほぼ同じではないだろうかと思ったのである。
ただ、明治時代にS村という名前は無かったのであるが、この奥会津S村の歴史的村域では3500名ほどの人口が昭和時代まで続いていたらしいことをどこかで読んだからである。
明治時代の戸数と一戸あたりの構成人数のことなどについて書いてみようと思ったのだが、いかんせん、わたしの知見では無理だ、と気づいたので、ここまで。で・し・た。
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