上田と折橋(5月5日) ― 2011/05/17 00:07
(掲載_110517)
チュウハン(昼食)時間に近くなって、モミガラ(燻製籾)撒きの続きは午後にもう一回やっぺ。
ということで、玉屋敷(畑)からぐるっと大回りをして、妻と上田(うわだ)を散歩してみた。
妻はこの地に生まれたはずなのに、上田については何にも知らないのである!
いや、わたしも、上田の地はつい2、3年前に初めて歩いたのである。
ネイティブが住んでいらっしゃったかもしれない、小中津川集落(小中津川村)の高台地区である。
津波がなくとも高台は有利な地となるのである。
この上田(うわだ)地区は、柳沢の流れから見たときに洪水で扇状地には引っかからない位置にある。
また、柳沢峠への道の旧道にもあたる位置である。
上田(うわだ)があるので小中津川には下田(しもだ)という地名もあるのかというと、それは知らない。
柳沢(折橋)の流域(扇状地)は、耕地整理がなされているので地勢は昔とは変わっているのかもしれない。
上田のお墓は「栗城」と「本名」姓が多い。
この川の橋のそば(折橋)には、「薬師様」の堂宇があった。すぐ近くに阿弥陀様もある。
わたしはずっとこの二つの建物を勘違いしていた。薬師様は昭和時代後半の洪水で流されて、ご本尊様?は下中津川のお寺に引越しされたらしい。
中学生の頃には、お堂があったのを見た記憶がある。
そこを流れる川(沢)を現在は柳沢と呼んでいるが、その川はかつて『中津川(中ツ川)』ではなかったろうかという説を聞いたことがあるようなないような。
その川は、現在の野尻川にそそいでいる。その川の下流が「下中津川」、その野尻川の上流は柳沢からの水が流れていないので水量が少し少ないので「小中津川」という、、、。
と、聞いた事がある、とすればK氏に聞いたことのような気がする。
小中津川には、名前だけでは有名な「気多神社」がある。
小中津川では、「気多神社」の氏子のほとんどの姓は「束原」という姓である。
ずっと神道である。が、ある時代(明治以降だと思うが)に仏教に転向せよ!という圧力があったらしい。
仏壇(←言い方がおかしいですね)には「柱」と「位牌」が混在している。
小中津川の「上田」は、いわば山の手である。午後の日照時間は「上坪(かみつぼ)」あたりとはだいぶ違うらしい。
上坪てー(達)が「そろそろアガッペや(農作業を終了しよう)」という時刻でも上田はまだ日が差しているのである。という。
「父ちゃんいますか?」と尋ねたら、怪しまれたらしい。「いなーい!」
長女のたまちゃんは家の中に入ってしまった。たまちゃん、去年のお盆にも会ったのに(泣)。
実はこの道は、4月30日にK氏の車に同乗して、歩いた道。
境界の石だったかも、クマ石。この向うが気多神社。
クマ石(勝手呼称)は、ある中心点から、放射状に並んでいる気がする。
どうしてもクマ石と絡めて、ある場所と直線で結んでみたい筆者の妄想願望(笑)
最近はどこにでもある大きな「××家」代々の墓石はない。
昭和時代の後半に移設したものと勘違い(思い込み)していたが、もともとこの地にあった。
昭和1桁生まれの人に聞いた。
嗚呼、またこんなテキトー話を書いてしまった、、、。ほんと、すみません。←性懲りも無し!(笑)
コメント
_ k ― 2011/05/17 07:24
_ 恵比塵 ― 2011/05/17 22:03
懲りずにご指導くださいませ。
ありがとうございます!
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